水の伏魔殿 銀の共鳴2 岡野 麻里安   目 次  序 章  第一章 |呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》  第二章 三つ首の|竜《りゅう》  第三章 |約束《プロミス》  第四章 |江《え》ノ|島《しま》へ  第五章 水に|棲《す》む|魔《ま》  第六章 禁じられた|剣《つるぎ》  第七章 |幾《いく》|千《せん》|億《おく》の|魂《たましい》  『銀の共鳴』における用語の説明   あとがき     登場人物紹介 ●|鷹塔智《たかとうさとる》 [#ここから1字下げ]  十六歳の|超《ちょう》一流|陰陽師《おんみょうじ》。元JOA(財団法人日本神族学協会)職員だが、|呪《じゅ》|殺《さつ》を|請《う》け|負《お》うJOAの姿勢に失望し、脱会。|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》・|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》に|記《き》|憶《おく》を|封《ふう》じられ、|新宿区《しんじゅくく》|高《たか》|田《だの》|馬《ば》|場《ば》をさまよっている時、|京介《きょうすけ》に救われる。普段は|頼《たよ》りなげで、周囲の|庇《ひ》|護《ご》|欲《よく》をそそる美少年。しかし、敵に追いつめられ、普段は忘れている陰陽師としての力を発揮する時、|傲《ごう》|慢《まん》な|瞳《ひとみ》の|怜《れい》|悧《り》な|美形《び ぼ う》に|変《へん》|貌《ぼう》する。 ●|鳴海京介《なるみきょうすけ》 [#ここから1字下げ]  十七歳の高校生。ひょんなことから智を拾い、持ち前のお|人《ひと》|好《よし》しな性格から行動をともにすることに。超常現象は死ぬほど嫌いだが、いざ智を守るためとなると命を投げ出しかねない一面もあり、そのため、智から信頼を寄せられる。現在は、智のマンションに|居候中《いそうろうちゅう》。緋奈子と死闘の際、|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》・|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を扱える存在であることに気づくが、その理由は|未《いま》だ不明。 [#ここで字下げ終わり] ●|赤《あか》|沼《ぬま》|英《えい》|司《じ》 [#ここから1字下げ]  JOA所属の呪殺者。智を|恨《うら》み、緋奈子による智の呪殺依頼を引き受ける。 [#ここで字下げ終わり] ●|時《とき》|田《た》|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》 [#ここから1字下げ]  魔の盟主。カリスマ性のある|冷《れい》|酷《こく》な十八歳の少女。智とは幼なじみである。 [#ここで字下げ終わり] ●|宮《みや》|沢《ざわ》|勝《かつ》|利《とし》 [#ここから1字下げ]  大阪弁をしゃべる不良少年。智や京介に好戦的な態度をとるが……。 [#ここで字下げ終わり] ●|時《とき》|田《た》|忠《ただ》|弘《ひろ》 [#ここから1字下げ]  JOA所属の|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》。緋奈子の|従兄《い と こ》にあたる美青年。智とはただならぬ関係!? [#ここで字下げ終わり] ●|宮沢遼司《みやざわりょうじ》 [#ここから1字下げ]  勝利の父親で弁護士秘書を務める。|湘南《しょうなん》|江《え》ノ|島《しま》の退魔を智に依頼した人物。 [#ここで字下げ終わり] ●|睡《すい》|蓮《れん》 [#ここから1字下げ]  智の|式《しき》|神《がみ》の一体で情報収集が専門。智と|瓜《うり》|二《ふた》つの美貌を持つ。性格は|沈着冷静《ちんちゃくれいせい》。 [#ここで字下げ終わり] ●|百《もも》|瀬《せ》|麗《れい》|子《こ》 [#ここから1字下げ]  智の|後《こう》|見《けん》|人《にん》を自認する二十歳の|犬《いぬ》|神《がみ》|使《つか》い。勝気な性格の美女。 [#ここで字下げ終わり] ●|紅葉《も み じ》 [#ここから1字下げ]  智の|式《しき》|神《がみ》の一体で、戦闘専門。一見|軽《けい》|薄《はく》だが、腕は確か。必殺技は「|魔《ま》|斬《ざん》|爪《そう》」。 [#ここで字下げ終わり]     序 章  胸に焼きついた|記《き》|憶《おく》がある。  生まれて初めて、本気で誰かに殺意を持った。  あれからずっと、あいつの夢ばかりみている。  殺したいほど|憎《にく》んだあいつ。  十二歳で天才と呼ばれた|陰陽師《おんみょうじ》——|鷹塔智《たかとうさとる》。  四年前のあの日から、忘れられない。  バサバサッ……!  |鋭《するど》い羽音をたてて、鳥が飛びたった。  夏の|雑木林《ぞうきばやし》のなかだった。  灰色の|境界石《きょうかいせき》を越えたとたん、大気の|気《け》|配《はい》が変わる。  全身にまとわりつく|邪《じゃ》|悪《あく》な|怨《おん》|念《ねん》。  ここは、|死霊《しりょう》の|吹《ふ》き|溜《だ》まりだ。  地元では〈影の溜まり〉と呼ばれ、正気の人間は、けっして近よらない場所である。  |赤《あか》|沼《ぬま》|英《えい》|司《じ》は、足をとめた。  真っ黒な髪と|瞳《ひとみ》。十三歳にしては、がっしりした体。  ワンウォッシュのリーバイスと、オレンジ色のランニングシャツ。  まだ若いが、陰陽師見習いである。  この国の|霊能力者《れいのうりょくしゃ》たちを管理・教育する、JOA(|財団法人日本神族学協会《ジャパン・オカルティック・アソシエーション》)に所属している。  現在は、この雑木林の近くのJOA霊力開発研修センターで研修中の身だ。  晴れていた空が、急に|陰《かげ》った。  無数の邪悪な影が、地を|這《は》って、赤沼に襲いかかってくる。  ——何しにきた?  ——|我《われ》らの眠りを|邪《じゃ》|魔《ま》する者は許さぬ。  赤沼は、軽く手を振った。  次の瞬間、指のあいだに黒い針が現れる。 「オン・シュチリ・キャラロハ・ウンケン・ソワカ!」  |真《しん》|言《ごん》を|唱《とな》える。針は、真っ黒な|太刀《たち》に変化した。  |赤《あか》|沼《ぬま》は、黒い|太刀《たち》を構えた。  思いつめたような表情だ。 「来るなら来い!」  |死霊《しりょう》どものあいだに動揺が走った。  ——|呪《じゅ》|具《ぐ》〈|影《かげ》|斬《き》り〉!  ——いかん……あの|刃《やいば》に|呑《の》みこまれる……!  ——影使いか!  赤沼は、無意識に|唇《くちびる》をペロリとなめた。 「行くぞ!」  少年は〈影斬り〉をしっかりと握り、天にむける。  ——|小癪《こしゃく》な!  ——押しつぶせ!  死霊どもが大挙して、襲いかかってきた。  重なりあう死者の影。  |邪《じゃ》|悪《あく》な|怨《おん》|念《ねん》で、空が暗くなる。  林の下草が、風にザワザワと波だった。  すさまじい|負《ふ》の|霊力《れいりょく》。  普通の人間ならば、とっくに死霊に|憑依《ひょうい》されて、|昏《こん》|倒《とう》しているはずだ。 「てめーら、みんな俺のエネルギーになっちまえーっ!」 〈影斬り〉を|掲《かか》げたまま、赤沼が|絶叫《ぜっきょう》する。  ふいに、〈影斬り〉が緑の|閃《せん》|光《こう》を放つ。  緑の光は、死霊どもの影を包みこんだ。  ——ああっ……!  ——うわあああああーっ!  死霊どもの悲鳴が、響きわたる。  ズズズズズーッ!  バキバキバキッ……!  林の木が、数十メートルにわたってなぎ倒された。  赤沼の霊気と、死霊どもの霊気がぶつかりあった結果、カマイタチが発生したのだ。  赤沼は、カッと目を見開いて、立っている。  両手で〈影斬り〉を掲げたままだ。 (この影をみんな吸いこめば——。  俺は、強くなれる……)  これは、禁断の術だ。  死者の|霊《れい》|気《き》を取りこむのは、JOAによって禁じられている。  だが、霊力をアップさせるには、ほかに方法はないのだ。  緑の光は|収束《しゅうそく》し、〈|影《かげ》|斬《き》り〉のなかへ吸いこまれていった。  |赤《あか》|沼《ぬま》の霊気が、|飛《ひ》|躍《やく》|的《てき》に増大する。 「ふ……」  少年は、ふらつき、|片《かた》|膝《ひざ》をついた。〈影斬り〉を地面に突き立て、|杖《つえ》とする。  |死霊《しりょう》の|吹《ふ》き|溜《だ》まりは、異様に静まりかえっていた。  あれだけいた|邪《じゃ》|悪《あく》な霊は、すべて赤沼のなかに吸いこまれたのだ。  赤沼の|蒼《そう》|白《はく》な顔に、勝ち誇ったような|笑《え》みが浮かんだ。 「ふふ……ざまあみやがれ……」 (|鷹塔智《たかとうさとる》……もう、おまえには負けねえ。  智と肩を並べて、対等になれる。  この霊力で——)  赤沼は、天にむかって|拳《こぶし》を突きあげた。 「やったぜ! 俺はやった!」  赤沼の|両頬《りょうほお》は、|濡《ぬ》れていた。  誰一人として|祝福《しゅくふく》してくれない勝利。  邪悪な手段で手に入れた霊力。  だが、一度〈影斬り〉で吸収した霊力そのものには、善も悪もない。  純粋な力だ。  |出所《でどころ》がどこであろうと、|赤《あか》|沼《ぬま》の霊力はアップしたのだ。 (大事なのはそのことだ。恥じる必要なんかない。  俺は、強くなった……智と同じように)  鷹塔智と、彼、赤沼|英《えい》|司《じ》は、同期の|陰陽師《おんみょうじ》見習いだ。二人とも、五年前、JOA(|財団法人日本神族学協会《ジャパン・オカルティック・アソシエーション》)の霊力開発研修センターに入所したのだ。  鷹塔智は、現在十二歳。  天才と|噂《うわさ》される美少年だ。  |凜《りん》とした|瞳《ひとみ》と、完璧なまでに整った顔だち、ほっそりした優雅な手足。  初対面の時、赤沼は、鷹塔智を絶世の美少女と|勘《かん》|違《ちが》いして、胸をときめかせたものだ。  その悲しい誤解が|解《と》けるまで、わずか十分。  あれは不幸な出会いだった。  以来、智と赤沼は、顔をあわせれば|喧《けん》|嘩《か》ばかりしている。  はたから見ると|犬《けん》|猿《えん》の仲。  だが、本人同士は、それなりに互いの存在に満足しているという、奇妙な関係だった。  お互いに、意地をはりあうのが|面《おも》|白《しろ》いのだから仕方がない。  同期のほかの連中は、年中行事のような|智《さとる》と|赤《あか》|沼《ぬま》の|喧《けん》|嘩《か》に、なかば|呆《あき》れ顔だ。  だが、研修センターで暮らした五年は長かった。  赤沼と|鷹《たか》|塔《とう》智のあいだには、越えられない深い|溝《みぞ》ができつつあった。  つまり、|厳《げん》|然《ぜん》たる|霊力《れいりょく》レベルの差である。  霊力レベルの差は、そのまま、この|退《たい》|魔《ま》・|浄霊《じょうれい》業界では「身分」の差に結びつく。  たとえば、レベルが一つ違えば、退魔・浄霊の|報酬《ほうしゅう》に、最低で数十万円の差がつく。  レベルが五つ違えば、その差は数百万円になる。  もちろん、このJOAの研修センターでも、ありとあらゆる場面で、レベルの格差を思い知らされる。  寮の部屋が一人部屋か、四人部屋かの違いからはじまって、食事の時の席順、入浴の順番、|掃《そう》|除《じ》当番の|有《う》|無《む》。  互いの実力の差を|肌《はだ》で感じてもらおうという、研修センター側の|陰《いん》|湿《しつ》な|配《はい》|慮《りょ》である。  鷹塔智のレベルは、特Aクラス。  つまり、一流の|陰陽師《おんみょうじ》として、今すぐ通用するということになる。  赤沼のレベルは、Eクラス。  最低レベルである。  霊力はあるが、未開発で、コントロールができない、という状態だ。  当然、赤沼は下っぱ扱いだ。  汚れ仕事ばかりがまわってくる。  ゴミ捨て当番、早朝の|廊《ろう》|下《か》掃除、上級クラスの研修生たちの身のまわりの世話。  人一倍、プライドの高い赤沼には、|屈辱的《くつじょくてき》なことだった。  智が、特Aクラスの特権で、下級クラスの世話係にかしずかれているあいだ、赤沼は汗水たらして、|雑《ぞう》|巾《きん》やモップを振りまわさなくてはならない。  ここでは、レベルの差が、すべてを決めるのだ。  そんなこんなで、最近、赤沼はちょっとひがみっぽくなっていた。 (俺、この業界に入ってきたのが間違いだったかも……。  才能ないのかも……)  このまま一生、術者としては、芽が出ないかもしれない。  そう思うと、矢もたてもたまらなくなった。  研修センターの近くに、〈影の|溜《た》まり〉と呼ばれる禁断の地があると知ったのは、そんな頃である。  |死霊《しりょう》が地霊気の流れに吹きよせられて、集まってくる土地。  ここに迷いこんだ者は、ことごとく|発狂《はっきょう》し、あるいは|憑依《ひょうい》されて、凶悪犯罪を引きおこした。  この土地を|浄化《じょうか》しようとした術者も多かったが、成功した者はいないという。  そのため、〈影の|溜《た》まり〉は、JOAの特別立ち入り禁止区域に指定されている。  研修センターでも、〈影の溜まり〉には近づかないよう指導している。理由の説明はない。  だが、|噂《うわさ》はどこからかもれるものだ。 〈影の溜まり〉の話を耳にした時、|赤《あか》|沼《ぬま》の心は|躍《おど》った。  赤沼の|得《とく》|意《い》|技《わざ》は、影使い。  つまり、人の影を|斬《き》って吸いこみ、その相手の能力や|霊力《れいりょく》を我がものにする術である。  その術の効果は、生きている人間のみならず、死者の|霊《れい》|魂《こん》にまでおよぶ。 (|死霊《しりょう》の霊気を取りこむことができるとしたら——。  俺は、|鷹塔智《たかとうさとる》のように強くなれるかもしれない。  あの|眩《まぶ》しい霊力を俺のものにできる……)  赤沼は、強くなりたかった。  霊力が欲しかった。  たとえ、どんな手段を使ってでも。  そして——手に入れたのだ。 「俺は、勝った……〈影の溜まり〉の霊気を制した!」  赤沼は、|意《い》|気《き》|揚《よう》|々《よう》と研修センターへ引きあげようとした。  と、その時、激しい犬の|吠《ほ》え声と、少女の悲鳴が聞こえてきた。 「助けてぇーっ! 誰かーっ!」  バサバサバサッ……!  バタバタバタッ……!  数十羽の鳥が、|嵐《あらし》のような羽音をたてて飛びたった。  林のあいだを縫って、小さな人影が姿を現した。  八歳くらいの少女だ。  ピンク色のワンピースを着て、赤いエナメルの|靴《くつ》を|履《は》いている。 「|嫌《いや》ぁーっ! 助けてーっ!」  少女は、赤沼の姿に気づいて、泣きながらこちらに走ってくる。  その後ろから、大きな茶色い犬が追ってきた。  犬の首輪からは、引きちぎられた|鎖《くさり》がたれさがっていた。  真っ赤な口から、|鋭《するど》い|牙《きば》が見える。 (マズいな……)  赤沼は、素早く少女にむかって駆けだした。  犬の様子がおかしい。ひどく|狂暴《きょうぼう》になっている。  ほうっておけば、少女は|噛《か》み殺されてしまうかもしれない。  少女と犬は、|境界石《きょうかいせき》を越えた。 「助けてぇーっ!」 「こっちへ来い! 助けてやる!」  その声に、少女はホッとしたようだ。  |赤《あか》|沼《ぬま》は、|印《いん》を結んだ。|霊力《れいりょく》を集中する。 「ナウマク・サマンダ・ボダナン・ジリチェイ・ソワカ!」  流れるような|真《しん》|言《ごん》。 「|破《は》!」  霊気の固まりを犬にむかって|叩《たた》きつける。  |狂暴化《きょうぼうか》した犬が、キュウン……と悲鳴のような声をあげた。  もんどりうって倒れる|獣《けもの》。  脚が、空中で弱々しく動く。  すさまじい霊気だ。以前にくらべたら、|嘘《うそ》のように|威力《いりょく》がある。 「すげえ……」  赤沼は、新たに|獲《かく》|得《とく》した霊気の強さに|驚愕《きょうがく》していた。  少女が、まだ|濡《ぬ》れた|瞳《ひとみ》で、うれしそうに笑う。 「ありがとう、お兄ちゃん」 「へへっ……礼にはおよばねーさ」  |微《ほほ》|笑《え》みをかえした赤沼は、|微妙《びみょう》な違和感を感じた。  一度放出した霊気が|鎮《しず》まらない。  胸のあたりが、妙に冷たくなる。 (え……何……?)  ズルズルと体のなかから、霊気が引き出されていくような感覚。  霊気を|制《せい》|御《ぎょ》できない。  ショックで、赤沼の視界がふっと暗くなる。 「きゃあっ!」  少女が悲鳴をあげた。  ブシュッ……!  濡れたような音をたてて、茶色の犬が内側から|弾《はじ》け飛ぶ。  鮮血と一緒に、内臓があたり一面に散らばる。  ムッとするような血の|臭《にお》い。 「う……!」  赤沼は、両手で胸を|鷲《わし》づかみにし、草に|膝《ひざ》をついた。  暴走する|霊《れい》|気《き》を止めることができない。 (|制《せい》|御《ぎょ》……しきれない……!  誰か……!)  少女が、|火傷《や け ど》したような声をあげて倒れた。 「痛いーっ! 痛いっ! やめてっ!」  今度は、|赤《あか》|沼《ぬま》の霊気は少女に襲いかかった。  不自然な形にのけぞる少女の体。  絶望に見開かれた|瞳《ひとみ》が、赤沼を|凝視《ぎょうし》する。 「お……兄ちゃん……やめて! お願い……!」  少女の肩がゴキッ……と鳴る。  耳をおおいたくなるような悲鳴。  赤沼は、自分がこの少女を殺してしまうのだと思った。  助けられない。 (神さま……!)  その瞬間だった。 「赤沼さん!」  一瞬、天使が舞い降りたのかと思った。  白い姿が、|境界石《きょうかいせき》を越えて駆けよってきた。  清い霊気を|翼《つばさ》のようにまとって。  白いコットンシャツと、ホワイトジーンズ。  |凜《りん》とした|瞳《ひとみ》の美少年——JOA所属の天才|陰陽師《おんみょうじ》・|鷹塔智《たかとうさとる》だ。 「智……」 「赤沼さん、何やってるんだ! あぶないっ!」  少女が、苦しげにうめき、智にむかって|這《は》いずっていく。 「助け……てぇ……!」  智の瞳が少女を見、バラバラになった犬の|死《し》|骸《がい》を見、最後に赤沼を見る。  天才陰陽師は、この場のすべてを理解したようだった。  美しい顔に、深い|哀《あわ》れみの色がかすめる。  大人びた|高《こう》|貴《き》な表情。 「かわいそうに……」  その言葉は、毒の矢のように赤沼の胸を刺しつらぬいた。 (かわいそうだと……? 哀れむのか……この俺を?)  智の瞳は、天の高みから赤沼を見おろしているようだ。  力を制御できず、|泥《どろ》のなかで這いずる赤沼を。 (おまえの前では、俺はいつまでも虫ケラなのか……|智《さとる》)  会うたびに思い知らされる。  智には永遠にかなわない、と。  どんなに努力しても、禁断の術に手を染めても——。  |赤《あか》|沼《ぬま》は、智にはかなわないのだ。  生まれて初めて、赤沼は自分に絶望した。  |霊力《れいりょく》さえ手に入れれば、智と肩を並べられると思ったのだ。  今はダメでも、いつか。いつの日か。 (甘かった……!  才能が違う……持って生まれたものが違いすぎる。  智には、かなわない)  打ち|砕《くだ》かれる甘い夢。  つらいことがあるたびに思い|描《えが》いてきた未来が、音をたてて|崩《くず》れていく。  赤沼は、低く笑いだした。|苦《にが》い|自嘲《じちょう》の笑い。 (俺はウジ虫だ……永遠に|這《は》いあがることができない) 「今、助けてあげる! 赤沼さん、しっかりして!」  智が|印《いん》を結んだ。 「オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン!」  |綺《き》|麗《れい》な発音の|光明真言《こうみょうしんごん》。  天才|陰陽師《おんみょうじ》の優しい祈りが、赤沼と少女を包みこんでいく。  |慈《じ》|愛《あい》に満ちた透明な霊気。  暴走した赤沼の霊気が、少しずつ|鎮《ちん》|静《せい》|化《か》しはじめた。 「やめろ、智!」  赤沼は、智の真言に|逆《さか》らう。 「おまえに助けてもらいたくなんかねえ!」  ピシ……ッ!  カマイタチが起こり、智の|頬《ほお》がスッと切れる。  流れだす鮮血。 「赤沼さん……?」  天才陰陽師は、驚いたように赤沼を見つめた。清らかな|瞳《ひとみ》を見張っている。  すでに、赤沼の霊気の暴走は治まっていた。  智は、傷ついた少女をかばうように、赤沼の前に立った。 「どうしたの、赤沼さん。|大丈夫《だいじょうぶ》? オレ、何か悪いことした?」 「うるせえ」  |赤《あか》|沼《ぬま》は、薄く笑った。  |霊《れい》|気《き》が、どうしようもなく|歪《ゆが》んでいくのを感じる。  |智《さとる》への|憎《ぞう》|悪《お》で。  智は、赤沼の霊気の変化に、不安げに|眉《まゆ》をよせた。  心から赤沼のことを心配している。 「一緒に、研修センターへ治療に戻ろう。ね、赤沼さん。お願いだから」 「俺に|指《さし》|図《ず》するんじゃねえ!」  赤沼の全身から吹き出す真っ黒な霊気。  智への憎悪で息がつまる。 (おまえが|憎《にく》い……)  智が、赤沼の心を感じたのか、大きく目を見開いた。 「どう……したの、赤沼さん。怒ってるの? どうして?」 「おまえが……おまえだから許せねえ!」 「赤沼さんっ!?」 「殺してやる……!」  思わず赤沼は、智にむかって、|必《ひっ》|殺《さつ》の霊気を|叩《たた》きつけた。  自分の体が、自分のものではないように、ひどく冷たい。 「はああああーっ!」 「赤沼さんっ! やめて! お願い!」  智は、反射的に|結《けっ》|界《かい》を張る。 「|金《こん》|剛《ごう》|壁《へき》!」  赤沼の霊気は、強く|弾《はじ》きかえされた。  次の瞬間、智の手が赤沼の|額《ひたい》にむかって、まっすぐ突きこまれていく。 「ごめん、赤沼さん!」  額に智の手が触れたとたん、赤沼の全身が|硬直《こうちょく》する。  智の霊気が流れこんでくる。体が動かない。 「ごめんね……すぐ|楽《らく》になるから。そうしたら、また話そう。ね、赤沼さん……」  智が、泣きそうな目でささやく。  赤沼の意識は、薄れはじめていた。 (こんなに……簡単に……眠らされて……。  智の霊気に従わされて……)  赤沼は、歯がみしながら、深い眠りに落ちた。     第一章 |呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》  四年後の夏——東京。  目の前に、東京タワーのイルミネーションが見える。  夕暮れの空の下で、オレンジ色に輝く塔。  その真下の暗がりには、観光バスが何台も|停《と》まっている。 「あれから四年か……」  |赤《あか》|沼《ぬま》は、じっとりと汗ばむ両手を握りしめた。  仕立てのいいスーツの背中にも、汗をかいていた。  |港区《みなとく》にあるJOA(|財団法人日本神族学協会《ジャパン・オカルティック・アソシエーション》)ビルの|屋上《おくじょう》である。  十七歳になった赤沼は、今や、この国で五指に入る呪殺者だ。  四年前の一件で、赤沼の|霊《れい》|気《き》はひどく|歪《ゆが》んだ。  |鷹塔智《たかとうさとる》への|憎《ぞう》|悪《お》のためである。  JOA霊力開発研修センターの|師《し》|範《はん》たちも、赤沼は|退《たい》|魔《ま》・|浄霊《じょうれい》の術者としては不適格だと判断した。  |体《てい》のいい|破《は》|門《もん》である。  しかし、赤沼は、呪殺者としては、人並みはずれた才能を持っていた。  幸運にも、赤沼には、その才能を見いだしてくれた女性がいた。  その人は、赤沼の破門を|撤《てっ》|回《かい》するようJOAに働きかけ、呪殺技術の指導にあたってくれた。  今日、赤沼をこのJOAビルに呼びだしたのは、その女性だ。  ——人を一人、殺してほしいの。  十五分ほど前の会話が、赤沼の耳に|甦《よみがえ》ってくる。  JOAビルの最上階。  空調の|効《き》いた一室である。  赤沼の目の前に、呪殺の|依《い》|頼《らい》|主《ぬし》が座っている。  十八歳の少女だ。  長い|漆《しっ》|黒《こく》の髪、|能《のう》|面《めん》を思わせるのっぺりした顔。  口もとには、|三《み》|日《か》|月《づき》のような笑いを|貼《は》りつかせている。  ほっそりした体を包むのは、白い|綿《めん》のブラウスと、タータンチェックのフレアースカート。  少女の名前は、|時《とき》|田《た》|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》という。  JOAの支配者にして、|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》。  そして、|赤《あか》|沼《ぬま》にとっては、|呪《じゅ》|殺《さつ》技術の師にあたる。  初対面の日、緋奈子は、赤沼の黒い|霊《れい》|気《き》を、呪殺者として超一流になれると、|微《ほほ》|笑《え》みながら|断《だん》|言《げん》してくれた。  緋奈子の言葉どおり、赤沼は、|闇《やみ》の世界のエリートへの階段を駆け足であがってきた。  金にも、女にも不自由はしていなかった。 「|鷹塔智《たかとうさとる》を呪殺してちょうだい、赤沼。成功|報酬《ほうしゅう》で二億円出すわ」  緋奈子は、よけいなことは言わなかった。 「鷹塔智は、今、|記《き》|憶《おく》をなくしている。天才|陰陽師《おんみょうじ》も、今ならただの十六歳の子供よ」 「智……あいつを?」  赤沼にとっては、思いがけない名前だった。  忘れたくても、忘れられない相手。 (初めて、俺に殺意を教えた……。  あの犬の|死《し》|骸《がい》と、少女の悲鳴のなかで……) 「今、智は何をしています?」 「相変わらず|陰陽師《おんみょうじ》よ。|鷹塔智《たかとうさとる》は、千年に一人といわれたほどの天才。あなたにとっては、やりがいのある仕事だと思うけれど」  |緋《ひ》|奈《な》|子《こ》は、|妖《よう》|艶《えん》な|口調《くちょう》でささやく。 「引き受けてくれるわね、|赤《あか》|沼《ぬま》」 「よろこんで」  赤沼は、|細《こま》かいことは|訊《き》かなかった。  ターゲットが|狙《ねら》われる理由や、ターゲットと|依《い》|頼《らい》|主《ぬし》の関係については、相手が言わないかぎり、質問しない。  それが、|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》のルールだった。 「|吉《きっ》|報《ぽう》をお待ちください、緋奈子様」 「期待しているわ。鷹塔智に関する情報は、あとでメールで送らせる」  緋奈子は、満足げに|微《ほほ》|笑《え》む。  |邪《じゃ》|悪《あく》な笑顔だった。  こういう表情をする時、彼女は、赤沼にとって絶対的な存在になる。  この国の|闇《やみ》を支配する|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》。 (緋奈子様……あなたは、俺に教えてくれた。この呪殺能力を誇りに思うことを……。  善人でなくても、生きていていいのだと……教えてくれた。  俺は、だから、ついていきます。緋奈子様……たとえ、世界中があなたを否定しても)  時々、こっそりと胸のなかで|呟《つぶや》く言葉を、緋奈子はとうに知っているような気がする。  だからこそ、緋奈子は赤沼を見こんで、この仕事を依頼してきたのだろう。  けっして裏切らないと確信して。  緋奈子の前を|辞《じ》すると、赤沼はJOAビルの|屋上《おくじょう》にのぼった。  むしょうに、夕暮れの空が見たかった。  急速に日は落ちる。  |増上寺《ぞうじょうじ》のそばの東京プリンスホテルは、|黄昏《たそがれ》の海に浮かぶ巨大な光の船のようだ。  七月の夜風が吹き過ぎていく。  赤沼は、汗ばんだ手で|額《ひたい》をなでた。  そこには、白っぽく、|斜《なな》めに五センチほどの|傷《きず》|痕《あと》が残されている。  あの日、鷹塔智と別れてから、この手で刻みつけた深い|聖《せい》|痕《こん》。 (忘れない。俺は忘れない……。  俺だけを闇のなかに追いやって……一人で光のなかに消えたおまえ。  鷹塔智——おまえを忘れない)  鏡の前で、|怒《いか》りに震えながら、自分の額にナイフを押しつけた。  流れ出る血の色を見て、ようやく満足したのを覚えている。  子供じみた|復讐《ふくしゅう》の|誓《ちか》い。  自分を傷つけることでしか、感情を静めることができなかったあの頃——。 (あの少年の血は……今も赤いのだろうか)  ひどく|喉《のど》が渇いていた。  心臓の|鼓《こ》|動《どう》が大きく聞こえる。  興奮するのは、ようやく念願がかなうからか。 「|智《さとる》……おまえを殺す」  |赤《あか》|沼《ぬま》は、スーツのポケットから、指の長さほどの黒い針を取り出した。  赤沼の|霊力《れいりょく》に反応して、|太刀《たち》に変化したり、何本もの針に|分《ぶん》|裂《れつ》したりする|呪《じゅ》|具《ぐ》、〈|影《かげ》|斬《き》り〉。 「待っているがいい、|鷹《たか》|塔《とう》智。四年前の借り、かならず返させてもらう」  手首をかえすと、次の瞬間、針はどこかに消えた。  赤沼は、ゆっくりと夜のなかへ歩きだした。      *    *  |片《かた》|瀬《せ》|江《え》ノ|島《しま》駅で、電車を降りる。  徒歩三分で海が見えた。 「海ーっ! 海だっ!」  鷹塔智は、スーツケースをほうりだして走りだした。  白いコットンシャツとホワイトジーンズ。  ご|丁《てい》|寧《ねい》にスニーカーも白だ。  全身白ずくめのうえに、|凜《りん》とした|美《び》|貌《ぼう》なので、とにかく人目を|惹《ひ》く。  |新宿《しんじゅく》から来る途中も、何度か声をかけられた。 「おいっ、ちょっと! 待てよ、さとる!」  |鳴海京介《なるみきょうすけ》は、置き去られたスーツケースと、自分の赤いボストンバッグを|抱《かか》えあげた。  |焦《あせ》って追いかけようとするが、荷物が重くて、どんどん引きはなされる。  こちらは、一八七センチの長身。体格のいい色黒の少年だ。  身につけているのは、緑のポロシャツとベージュの短パン。  足もとは、茶色の|革《かわ》のサンダルだ。  全体に、アースカラーを基調としている。 「待てったら! おい、さとる!」  京介は、智を追いかけて、国道一三四号線を越え、駐車場と|土産《み や げ》|物《もの》|屋《や》の横を走りぬける。  |智《さとる》は、すでに東浜の海岸に降りたっていた。  真夏の午後だというのに、海で泳ぐ人影はまばらだ。 (妙だな……。夏の|湘南《しょうなん》に人がいないはずは……)  もしかすると、今回、智と|京介《きょうすけ》が|請《う》け|負《お》った|退《たい》|魔《ま》の関係だろうか。  この海の状況は、|依《い》|頼《らい》|主《ぬし》の地元代議士本人からも、その秘書からも説明されていない。 (この海に何が起こっているんだ……)  京介の|疑《ぎ》|惑《わく》をよそに、智は、まっすぐ海に走りこんでいく。  脱ぎ捨てられた白いスニーカーが、砂の上にポーンと落ちる。 「海だーっ!」 「バカ! さとる、服が|濡《ぬ》れるぞ!」  京介は、砂の上に赤いボストンバッグと智のスーツケースを置き、|怒《ど》|鳴《な》った。  智は、すでに、水に|膝《ひざ》までつかっていた。  |凜《りん》とした|瞳《ひとみ》を輝かせ、子供のようにはしゃいでいる。  京介の言葉も耳に入っていないようだ。 「あーあ……バカな|奴《やつ》だなぁ、もう。ジーンズ濡らして……誰が|洗《せん》|濯《たく》すると思ってんだよ」  智と京介が出会ってから、一か月と少したった。  最初は、互いに遠慮して「ナルミさん」「|鷹《たか》|塔《とう》」と呼びあっていた二人だったが、短期間のうちに「京介」「さとる」と呼びあう仲に進展した。  京介は、智のマンションに住みこんで、家事を一手に引き受けている。  いつの|間《ま》にか、そういう役割分担ができてしまったのだ。  |生《せい》|来《らい》のお|人《ひと》|好《よ》しのうえに、家事が得意というのが|災《わざわ》いした。  智は、ほうっておいても、絶対に家事はしない。  そういう少年だ。  京介がやってやるより仕方なかったのだ。たぶん。 「京介! 海だよー!」  智は、ジーンズが濡れるのもおかまいなしだ。  うれしそうにこっちに手を振っている。 「意外だよな……さとる、おまえさ、そんなふうにはしゃぐタイプだったんだ」  いつもの智は、どちらかというと無表情。  感情表現が|下手《へ た》で、シベリアンハスキーのような|怖《こわ》い目をしているので、誤解されやすい。  京介と一緒に暮らしはじめて、少しは|愛《あい》|想《そ》がよくなったのだが。  智は、海水にひたした指をなめている。 「オレ、海、初めてなんだ。すごいなあ……本当に海って塩の味がするんだ」 「マジ? |冗談《じょうだん》だろ?」 「ねえ、|京介《きょうすけ》、サケの切り身とか、どこにいるんですか。オレ、いっぺん見たいと思ってたんだ。サケの切り身がどうやって泳いでんのか、子供の頃からずっと|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》で」  |智《さとる》は、しごく|真面目《ま じ め》な顔で言ってのける。 「おい……」 「だから、オレ、海、初めてなんですよ。本当に」 「マジで初めてなのか?」  京介は、智の言葉が信じられない。 「来るチャンスなかったんですよね。オレ、子供の頃はずっと病弱で家に閉じこもってたし、七歳から五年間、山のなかのJOA研修センターに入ってたし」  京介は、過去のことを話しはじめた智に、少し驚く。 (思い出したのか……?)  出会った時の智は、すでに、極度の|霊力《れいりょく》の|消耗《しょうもう》のせいで|記《き》|憶《おく》を失いかけていた。  智の記憶が完全に消えたあと、次から次へと事件が起こった。  あれは、今年の六月のことだ。  まだ|梅雨《つ ゆ》入り前だった。  偶然の事故から、|封《ふう》|印《いん》されていたはずの|桜《さくら》の|怨霊《おんりょう》が解放された。  智は、苦労してそれを|浄化《じょうか》し、天に|還《かえ》した。だが、数日とたたぬうちに、新たな事件が起こった。  智や京介と同じ|諏訪東《すわひがし》高校に通う少女・|牧《まき》|村《むら》|冴《さえ》|子《こ》が、|行《ゆく》|方《え》|不《ふ》|明《めい》となり——。  智の|幼《おさな》なじみと名乗る|邪《じゃ》|悪《あく》な娘が現れた。  |時《とき》|田《た》|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》。  JOAの創立者の直系の|孫《まご》。そして、この国の|闇《やみ》を|統《す》べる|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》。  緋奈子は、智の記憶を封印した張本人だった。  緋奈子は、牧村冴子を病院から|誘《ゆう》|拐《かい》し、利用し、ついには|無《む》|惨《ざん》に殺した。  京介は、記憶|喪《そう》|失《しつ》の智をほうっておけなかった。  智と、智の同僚で|後《こう》|見《けん》|人《にん》の美女・|百《もも》|瀬《せ》|麗《れい》|子《こ》と、京介との三人で時田緋奈子に立ちむかった。  その戦いの|極限《きょくげん》状況のなかで、智と京介の心は一つになった。  強い|絆《きずな》が生まれたのだ。  同じ年頃の少年二人が、命をかけて、一つの目的にむかったためだ。  だが、結局、緋奈子は、無事に逃げおおせた。  智の心に深い|傷《きず》|痕《あと》をしるしたまま——。  そして、京介の手のなかには、|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》・|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》が残された。  魔を|斬《き》る|剣《つるぎ》が。  あの苦しい戦いから得られた|唯《ゆい》|一《いつ》の|収穫《しゅうかく》だ。  |智《さとる》は、今でも自分を責めている。  |記《き》|憶《おく》さえあれば、|牧《まき》|村《むら》|冴《さえ》|子《こ》を死なせずにすんだ、と。  時々、どうしようもないほど、つらそうな目をしていることがある。  あんな苦しい思いをしたのに、智が|退《たい》|魔《ま》から手を引かなかったのは、そのためだ。  智は、もう誰一人死なせないために戦っている。 「さとる、記憶、だいぶ戻ったみたいじゃないか。子供の頃の話ができるんなら、上等だぜ」 「夢の記憶みたいで、ものすごく断片的なんです。|脈絡《みゃくらく》がなくて」 「でも、思い出してきたんだろ」 「昔のことはね。でも……いちばん大事な今年前半の記憶がまだ……」  智は、不安げに顔を|曇《くも》らせる。 「ま、いい傾向だと思うぜ、俺は」  |京介《きょうすけ》は、茶色のサンダルを|蹴《け》り捨てた。  これは、早いところ、話題を変えるにかぎる。 「じゃあ、これから、初心者のさとる君に、夏の海のマナーを教えてあげよう」 「夏の海のマナー? マナーなんてあるわけ、京介?」  智は、|綺《き》|麗《れい》な目を見張った。 (こいつ、本気で|騙《だま》されてる) 「あったりまえよ。それから、今後、俺のことは、|師匠《ししょう》と呼ぶようにな」  京介は腕を組んで、ふんぞりかえる。 「はい、師匠」 「よーし、まずは、ウミウシだ」 「ウミウシ?」 「そのへんにいるだろ。青いナメクジみたいなやつ」  智は、キョロキョロとあたりを見まわしている。 「ほら、そこだ」  京介も海に入って、青い軟体動物を目ざとく発見する。  水のヴェールをとおして、白い海底に|陽《ひ》の光がチラチラ揺れていた。  照りつける夏の|陽《ひ》|射《ざ》しは強い。  この光の下では、何もかもが鮮明に映る。  快晴の青空。きらめく波のむこうに、緑の|江《え》ノ|島《しま》。  京介は、ふと、これが退魔の仕事がらみではなく、ただのバカンスならいいと、|切《せつ》|実《じつ》に思った。 「これがウミウシ……?」 「これも生まれて初めてか、さとる」 「うん……これ、|噛《か》みつかない?」  |智《さとる》は、|怖《こわ》|々《ごわ》、水面に顔を近づけて海底を|覗《のぞ》きこむ。  その格好は、|凜《りん》とした|美《び》|貌《ぼう》にはぜんぜん似合わない。  本当に子供のようだ。 「踏んでみろよ、さとる」  |京介《きょうすけ》は、意地悪く命令する。智の反応を見たかった。  ギョッとしたように顔をあげる智。 「え……踏む? これを?」 「そうだ。夏の海は、ウミウシを踏むところから始まるといってな。人によっては、イソギンチャクからだという説もあるが、俺はウミウシ派だ。イソギンチャク派がプロテスタントなら、ウミウシ派はカトリックだな。こっちのほうが古い歴史があるんだ」 「…………」  智は、なんだか|怪《あや》しい、と言いたげな顔になってきた。 「京介……」 「|師匠《ししょう》と呼べぃ! ほら、師匠の言葉がきけんのか。踏めと言ったら、踏むんだよ」  コットンシャツの肩を、軽くどついてやる。  突然のことで、智はバランスを|崩《くず》した。 「あ……ああっ!」  よろめいた|拍子《ひょうし》に、思いっきりウミウシを踏んでしまう。  ぐにゅっという|嫌《いや》な感覚。 「踏んじゃった……」  今にも泣きそうな智の顔。  京介は、こらえきれずに爆笑した。  笑いすぎて、腹が痛くなってくる。  からかわれていた、と気がついた智は、必死に|体《てい》|裁《さい》をつくろおうとする。  まず、クルリと京介に背をむけた。  |相《あい》|棒《ぼう》に見えないところで、クールな|陰陽師《おんみょうじ》の表情を作ろうとする。  だが、動揺してしまったため、うまくいかない。  ついには、あきらめ、両手で海水をすくって、京介の顔にぶちまけた。 「バカッ!」 「何すんだよ、いきなり」  前髪からポタポタ|雫《しずく》をたらしながら、京介は、まだ笑っている。  |智《さとる》は、他人に|細《こま》かく気を|遣《つか》うほうではない。  |偏食《へんしょく》だし、わがままだし、家事能力がないし、一度思いこむと、けっこう|強情《ごうじょう》だ。  こんな|厄《やっ》|介《かい》な|奴《やつ》と、それなりにうまくやってこられたのも、たぶん、智の甘えを|可《か》|愛《わい》いと思える|度量《どりょう》が、|京介《きょうすけ》にあったせいだろう。  智も、そのへんはわかっていて、安心してじゃれているふしがある。 「アホちゃうか、おめーら」  突然、|嘲《あざけ》るようなテノールの声が、二人の後ろから聞こえてきた。  智と京介は、勢いよく振りかえった。  波打ちぎわに、一見して不良とわかる少年が立っている。  肩すれすれの長髪だ。ブリーチした茶色の髪で、|額《ひたい》に黄色いバンダナを巻いていた。  身長は、一七八センチ前後。|膝《ひざ》までのパンツに、白と黄のヨットパーカをはおっている。ヨットパーカの下は、|素《す》|肌《はだ》だ。  首には、|革《かわ》|紐《ひも》でつるした銀のペンダントが見える。 「|勝《かつ》|利《とし》ぃ、あの子たち、こっちを|睨《にら》んだわよ」 「やーねえ……ガラが悪い」  勝利と呼ばれた少年の|両脇《りょうわき》には、水着姿の美女が二人いた。  どちらも、|華《はな》やかな|美《び》|貌《ぼう》と|肢《し》|体《たい》。年齢は、|二十歳《は た ち》前後だろうか。片方がショートカットで、片方がソバージュ・ヘア。  智にむける美女二人の視線は、|怖《こわ》いほど冷たい。自分より|綺《き》|麗《れい》な少年を目の前にして、|露《ろ》|骨《こつ》に|嫉《しっ》|妬《と》|心《しん》を燃やしている。 「ジーンズで海に入って、バッカみたーい!」 「ブスな男ぉ!」 「アホは、ほっとき。マミと|友《ゆ》|里《り》のほうが、ずっと百倍もべっぴんやでぇ」  勝利は、両側の美女たちの腰を抱きよせた。  外人のような|仕《し》|草《ぐさ》で、美女二人の|頬《ほお》にキスをする。かなり|気《き》|障《ざ》だ。  うれしそうな悲鳴があがった。 「やーん、勝利ったらぁ……!」 「こんなところでぇ」  智と京介は、なんとなくムッとした。  あてつけがましい勝利の態度。これは、あきらかに|因《いん》|縁《ねん》をつけられている。 「ガラが悪いのは、どっちだよ」  京介が、押し殺した声で|呟《つぶや》く。  好戦的な表情。すでに、アドレナリン濃度が高くなっている。  京介は、バシャバシャと海から出ると、美女を連れた不良少年の前に立った。  一八七センチの長身を生かして、相手を上からねめつける。 「ちょっと顔貸しな、女の|腐《くさ》ったような兄ちゃん。俺と|智《さとる》がアホかどうか、きっちり教えてやろうじゃねーか」  短い沈黙がある。 「|図《ずう》|体《たい》のでかいアホが、なんや|吠《ほ》えとるわ」  黄色いバンダナの少年が、ニヤニヤ笑いながら言う。 「わいに|喧《けん》|嘩《か》売るんは、十年早いで、サル顔|野《や》|郎《ろう》」 「俺のどこがサル顔だ!」 「サルが|嫌《いや》やったら、人間語話さんかい」  |勝《かつ》|利《とし》は、せせら笑う。他人の神経を刺激するような会話を、心底楽しんでいる。  |京介《きょうすけ》の自制心が吹っ飛んだ。 (許せん!) 「こんの……|大《おお》|阪《さか》野郎が! ここは関東だぞ! 標準語話せ!」 「大きなお世話や、サル顔野郎」 「てめー、しまいにゃ、|納《なっ》|豆《とう》食わすぞ!」  納豆、という言葉で、勝利の|眉《まゆ》がピクリとあがる。 「ようその言葉をゆうたな、サル顔野郎。納豆やて……? あれは、人の食いもんやあらへんで。だから、わいは関東もんが嫌いなんや」  |勝《かつ》|利《とし》は、|傲《ごう》|慢《まん》な目つきで、|京介《きょうすけ》に「来い」と手招きする。  日に焼けた手首に、オレンジ色のプロミスリング。 「万が一、病院送りになっても、|治療代《ちりょうだい》くらいは払ったるわ。この|宮《みや》|沢《ざわ》勝利はな、金には不自由してへんのや」  美女たちが、巻きこまれるのを恐れて、素早く後ろに下がった。 「金でなんでも解決する気か、てめえ!」  京介が、|殴《なぐ》りかかる。 「金が正義やろ。世の中、強いもんの上にだけ日が照るのや」 「ほざけ!」  宮沢勝利と、京介のあいだで、|拳《こぶし》の|応酬《おうしゅう》が続く。  京介のほうが、十センチ近く背が高いのだが、戦いは|互《ご》|角《かく》だ。  ふいに、勝利の拳が、京介の|顎《あご》にヒットする。  京介は、よろめき、|膝《ひざ》をついた。その後頭部にむかって、勝利の|蹴《け》りが決まった。 「京介!」  |智《さとる》は、叫びざま、長髪の不良にむかって走った。  京介が、砂に倒れこむのが見えた。 「京介っ!」 「|無《ぶ》|様《ざま》やな」  ニタニタ笑う勝利に、智は|激《げき》|怒《ど》した。  |喧《けん》|嘩《か》|慣《な》れした不良にむかって、飛びかかる。  青い空を背景に、白いコットンシャツが、宙に舞った。  一瞬、智の姿は、巨大な白い鳥のように見える。 「てめ……!」 「|卑怯者《ひきょうもの》!」  智と勝利は、折り重なるように倒れた。  |濡《ぬ》れた砂の上をゴロゴロ転がりながら、殴りあう。  京介も、頭をブンと振って、起きあがった。  すぐ横でくりひろげられている|乱《らん》|闘《とう》に気づいたようだ。 「この……|大《おお》|阪《さか》|野《や》|郎《ろう》! さとるは関係ねーだろ!」  勝利に|躍《おど》りかかって、智から引きはなそうとする。 「やかましいわい、サル顔野郎!」  少年三人は、すでに|我《われ》を忘れて、大立ちまわりを演じていた。  その時だった。 「|勝《かつ》|利《とし》! やめなさい!」  |鋭《するど》い中年男性の声が割って入る。  |智《さとる》と|京介《きょうすけ》がハッとした時には、スーツ姿の男が勝利の肩をつかんで立たせていた。  バシッ!  |容《よう》|赦《しゃ》ない平手打ちが、不良少年の|頬《ほお》に決まる。  ザザーン……ザザーン……。  沈黙のなかに、波の音だけが響きわたる。  不意の|仲裁《ちゅうさい》に驚いた美女たちが、勝利のほうを見た。 「勝利……」  ぶたれた勝利は、顔をそむけ、ペッと|唾《つば》を吐いた。  左の頬が赤くなっている。  ミャウミャウと、つんざくような声をあげて、ウミネコが低空を飛んでいく。  白い|翼《つばさ》が、|陽《ひ》を|弾《はじ》いて、一瞬、チカリと光った。  勝利は、上目づかいに男を見た。 「子供の|喧《けん》|嘩《か》に親が入らんでや」 「黙りなさい、勝利。このかたがたは、私のお客さんだ」  中年男性は、|息《むす》|子《こ》を|叱《しか》りつけると、智と京介にむきなおった。  濃い茶のスーツに、ピンドットストライプのワイシャツ、茶系のネクタイ。  広い肩幅、日本人にしては珍しい|骨《ほね》|太《ぶと》の体格。  がっちりした体のわりには、植物的な印象を受ける。  どこか悲しげな、|穏《おだ》やかな目をしていた。  意志の強そうな口もとに、くっきりと|皺《しわ》が刻みこまれている。 「私、先日、お電話でお話しいたしました、|愛《あい》|川《かわ》|美《み》|佐《さ》|子《こ》事務所の|宮《みや》|沢《ざわ》と申します」  宮沢は、慣れた手つきで|名《めい》|刺《し》を取り出す。  名刺には、衆議院議員愛川美佐子秘書・宮沢|遼司《りょうじ》とあった。 「愛川美佐子……女の代議士ですか?」 「さとる、あれだよ。一時期はやったマドンナ議員」 「マドンナ議員なんかいましたっけ、このへん」 「|保《ほ》|守《しゅ》・|革《かく》|新《しん》が、対抗しあって量産してたからな。まだ生き残ってたんだろ」  保守系の愛川代議士は、今回の|退《たい》|魔《ま》の|依《い》|頼《らい》|主《ぬし》である。  宮沢秘書の世慣れた|笑《え》|顔《がお》が、智と京介にむけられる。  少年二人の、かなり無礼なひそひそ話を、聞かなかったふりしてくれている。 「息子がたいへん失礼いたしました。|陰陽師《おんみょうじ》の|鷹《たか》|塔《とう》智先生と、お連れの|鳴《なる》|海《み》京介さんですね」 「え……ええ、そうですが」  |智《さとる》が、先生呼ばわりされたことに|戸《と》|惑《まど》いながら、返事をする。 「え……|鷹《たか》|塔《とう》智?」  |勝《かつ》|利《とし》が、鷹塔智の名に反応する。  目をパチクリさせて、意外そうな表情だ。  黄色いバンダナをはずして、|京介《きょうすけ》と|殴《なぐ》りあって切れた|唇《くちびる》を押さえる。  美女たちが|怖《こわ》|々《ごわ》よってきて、勝利の手当てを始めた。 「|大丈夫《だいじょうぶ》、勝利ぃ?」 「あん……こんなに|腫《は》れちゃってぇ」  勝利は、|隙《すき》をみてしなだれかかる美女たちを押しのける。 「もう、ええわ。用ができたんや。また次に埋めあわせするよって、|堪《かん》|忍《にん》な」  抗議の声を押さえこみ、二人にキスをふるまう。  もてまくる勝利の姿に、京介が目を|皿《さら》のようにしていた。  見たくないのに、目が離せないという状態だ。  この|野《や》|郎《ろう》、許せん、と色黒の顔に書いてある。 「じゃーね、勝利。また電話するわね」 「この続きはまた……ね」  やがて、美女たちは、キャアキャア騒ぎながら去っていった。  見送った勝利は、何か考えこむように目を|伏《ふ》せた。 「そうか……鷹塔智か……」  低い|呟《つぶや》きがもれる。  |宮《みや》|沢《ざわ》秘書は、あくまで低姿勢に、智と京介に話しかける。  心配そうな表情と|口調《くちょう》。 「とんだことになりまして、申し訳ございませんでした。お|怪《け》|我《が》は?」  智と京介は、|困《こん》|惑《わく》して顔を見合わせた。  さほど大騒ぎするようなことではない。  年頃で、血の|気《け》の多い少年たちにとっては、珍しくもない|乱《らん》|闘《とう》なのである。 「いえ……怪我はしてませんけど」 「大丈夫ですから」 「お二人とも、本当に申し訳ございませんでした。息子にはよく言ってきかせますので……。勝利、おまえも謝りなさい」  父親にせかされて、勝利は、ふてくされたように頭を下げる。 「失礼しました」 「あ……そんな|丁《てい》|寧《ねい》にしていただかなくても……ねえ、京介」 「そうだよ。|喧《けん》|嘩《か》なんか、よくあることなんだし」  子供同士の喧嘩に親が出てくると、やはり落ち着かないものだ。  |智《さとる》と|京介《きょうすけ》は、|慌《あわ》てて事態を収拾しようとする。  ひとまず、その場は丸く収まったようだ。 「一時のお約束でお迎えするはずが、私どもの手違いで遅れまして……|重《かさ》ね|重《がさ》ね、申し訳ございませんでした」  |宮《みや》|沢《ざわ》秘書は、あらためて|謝《しゃ》|罪《ざい》する。  智は、受け取った先方の|名《めい》|刺《し》をどうしようか、と考えてしまう。  ヒラヒラさせている智の手を、京介が押さえた。  名刺ごと、智のホワイトジーンズのポケットに入れさせる。 「さとる、名刺は|粗《そ》|末《まつ》に扱うなよ。失礼だろ。ちゃんと|拝《はい》|見《けん》したら、|丁《てい》|寧《ねい》にしまう」 「……京介、くわしい」 「常識だろ。実は、俺の|親《おや》|父《じ》が会社社長やってるからさ」 と、京介はペロリと|舌《した》を出してみせる。  |門《もん》|前《ぜん》の|小《こ》|僧《ぞう》、習わぬ|経《きょう》を読む、というわけだ。  智は、差をつけられたようで、|面《おも》|白《しろ》くない。 「じゃ、宮沢さん、くわしいことを話していただきましょうか」  京介は、智のマネージャーのような顔をして言った。 「では、あちらにお車が用意してございます」  |丁重《ていちょう》な宮沢秘書に連れられて、二人は、駐車場のほうへ歩きだす。  後ろから、のろのろと宮沢|勝《かつ》|利《とし》がついていく。 「|鷹《たか》|塔《とう》先生」を|殴《なぐ》った|罰《ばつ》として、荷物持ちを命じられたのだ。  うんざりした顔をしている。  スーツケースとボストンバッグが、重そうに肩に食いこんでいた。  乱れた長髪からは、パラパラと砂がこぼれ落ちる。  京介と宮沢は、なぜか、わきあいあいと最近の景気の話をしていた。  とにかく、京介は中年にウケがいい。  さわやかで人なつこい外見と、目上の者には、いちおう無条件に礼をつくしてしまう体育会系の性格が理由に違いない。  人見知りで、感情表現の|下手《へ た》な智には、できない芸当だ。 (どうせ短いつきあいの人なんだから、そんなに|愛《あい》|想《そ》振りまかなきゃいいのに……)  そんなことを思って、智は、すぐに|自《じ》|己《こ》|嫌《けん》|悪《お》におちいってしまう。 (オレ、|嫌《いや》な|奴《やつ》だ……)  そんなことないよと、|京介《きょうすけ》はいつも言ってくれるのだが。  追いついてきた|勝《かつ》|利《とし》が、|智《さとる》に声をかけた。 「なあ、あんた、ほんまにあの|鷹《たか》|塔《とう》智か?」 「オレの名前、ご存じなんですか」  智は、少し緊張する。さっきまで|殴《なぐ》りあっていた相手である。まだ、しこりが|解《と》けたとは言いがたい。 「そんなに|警《けい》|戒《かい》せんでや」 と、不良少年はファニーフェイスで、ニヤッと笑う。  よく見れば、どこか人を|惹《ひ》きつける魅力のある顔だ。 「あんた、元JOA所属の天才|陰陽師《おんみょうじ》やろ。|噂《うわさ》は、いろいろ聞かしてもらったわ」 「噂……?」 「JOAが|陰《かげ》で|呪《じゅ》|殺《さつ》|請《う》け|負《お》ってるゆうて、脱会騒ぎ起こしたんやってな。あんたと一緒にやめよったのが、|犬《いぬ》|神《がみ》|使《つか》いの|百《もも》|瀬《せ》|麗《れい》|子《こ》やろ。……アホなことしよったなあ」  勝利は、声を落とす。  ボソボソとささやく。 「JOAが呪殺引き受けとんのは、ほぼ公然の秘密や。今さら、あげつらってどうすんねん。規定の|退魔報酬《たいまほうしゅう》の三十パーセントだけで、あれだけの巨大組織の運営ができるか。二万もいる職員の給料、払えるか。JOAの支部は日本全土にあるんやで。夢みとらんで、現実を見据えたらどうや」 「JOAの呪殺説、認めるんですか。あんた、何者です?」  智の表情が、きつくなる。  目の前にいる|軟《なん》|派《ぱ》な少年が、なぜこんなJOAの内部事情まで知っているのか。 (誰だ……こいつ……敵か……?)  智は、ジーンズのポケットの|呪《じゅ》|符《ふ》を使おうかどうしようか、と迷う。  今回、呪符は、三十五枚分しか持ってきていない。  JOA製のカード型のやつだ。  呪符が必要な時は、超小型のコンピューター、〈呪符DR〉に差しこんで使う。  ちなみに〈呪符DR〉の外見は、手のひらサイズの電子手帳に似ている。  もちろん、呪符が不要の時は、電子手帳としても使える。  オプションをつければ、JOAの極秘ホームページにもアクセス可能。  特殊オンラインを通じて、全国の退魔情報をリアルタイムで入手できるという、|優《すぐ》れものだ。  すべて、JOAが自信をもって開発した新製品である。  陰陽師としての|記《き》|憶《おく》のない智には、呪符を自力で作ることができなかったのだ。 「申し遅れたが、わいは|宮《みや》|沢《ざわ》|勝《かつ》|利《とし》。十七歳や。この春まで、|大《おお》|阪《さか》のおふくろの実家に戻っとったさかい、活動の|拠《きょ》|点《てん》も、ずっと関西やったし。あんたと会うチャンスなくてな。……実は、この春まで、わいの|親《おや》|父《じ》とおふくろ、離婚してたんや。同じ相手と七回も、離婚しては再婚しよって……あいだに|挟《はさ》まれた子供のわいは、ええ加減にせえ思うんやけど。ま、おかげで、わいは当分、|湘南《しょうなん》の親父んちにいることになるわ」  勝利は、|皮《ひ》|肉《にく》めいた|笑《え》みを浮かべてみせる。  |智《さとる》の迷いと不安を見抜いて、|面《おも》|白《しろ》がっているようだ。 「わいがなんで、こんなにJOAの内部事情くわしいんや思ってるやろ、|鷹《たか》|塔《とう》智」  少したれた目に、|挑《いど》むような光がある。 「同業者のかた……ですか」  考えられるのは、それくらいしかない。 「わいが|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》やからやわ。表向き、|呪《じゅ》|禁《ごん》|師《じ》ゆう肩書きで、JOAにも所属してる」  勝利は、ずばりと言ってのける。 「親父も知っとるわ。わいの|霊力《れいりょく》は、親父|譲《ゆず》りやからな。親子二代、JOA所属の呪殺者ゆうわけや。もっとも、親父はJOAに霊力|封《ふう》|印《いん》されて、今ではただの中年や」 「呪殺者……? |冗談《じょうだん》ですよね」  智は、内心、ギクリとしている。  勝利は、智の|焦《あせ》りも|見《み》|透《す》かして、|悠《ゆう》|然《ぜん》と笑う。 「わいには、人の心を|縛《しば》る力がある。|念《ねん》|縛《ばく》ゆうてな」 「ねんばく……?」 「念縛や。心を縛られるとな、ずっとその時の気分のまんまや。悲しい時は、悲しいまま。苦しい時は苦しいまま。ほっとけば、ストレスで、そいつは死ぬわ。地味な術やけど、大がかりな|呪《じゅ》|咀《そ》とは|違《ちご》うて、JOAの|心霊検察局《しんれいけんさつきょく》の調査でも、証拠はあがらん」  智は、目を細め、先を歩くスーツの背中を|凝視《ぎょうし》した。 (宮沢さんも元呪殺者なのか……まさか、そんなことって……) 「安心せえや、鷹塔智。わいは、あんたに|恨《うら》みあらへんし、殺そうとは思わんわ」 「……そうですか」 「その代わり、今回の|退《たい》|魔《ま》、とっくり見物さしてもらうわ。天才|陰陽師《おんみょうじ》の実力とやらをな。なにしろ、わいら術者全員の目標やからな。鷹塔智をぬいて、トップにたつっちゅーのが」  声をひそめて話しているうちに、智と勝利は、だいぶ遅れた。  駐車場に先についた宮沢秘書と|京介《きょうすけ》が、こちらを振りかえっている。 「何やってんだよぅ、さとる!」  京介が、じれったそうに手を振った。  緑のポロシャツが、海風を受けて|膨《ふく》らんだ。  強い|陽《ひ》|射《ざ》しが、|京介《きょうすけ》の影を地面に落とす。  笑っている|相《あい》|棒《ぼう》の顔は、今この瞬間、なんの不安もないようだった。  |智《さとる》の大好きな満面の|微《ほほ》|笑《え》み。  京介の笑顔は、見ているこっちまで幸せにしてくれる。 「ほら、ぼけっとしてないで走れよ、青少年! おせーぞ! ダッシュしろ!」  京介は、両手でメガホンを作って叫ぶ。 「俺たち、|宮《みや》|沢《ざわ》さんちに泊めてもらうことになったぞぉ! 暑いから、途中でアイス食わしてくれるって!」 (もう考えるのはよそう……)  智は、まっすぐ京介にむかって走りだした。全力|疾《しっ》|走《そう》する。  不安も、|苛《いら》|立《だ》ちも、何もかも後ろに置いていこうというように。 「京介!」  顔をあげて叫ぶと、|嫌《いや》な気分が少しだけスッとする。 「|鷹《たか》|塔《とう》選手、最終コーナーをまわりました! ファイナルラップです!」  京介が、手をマイク代わりにして、|実況中継《じっきょうちゅうけい》する。  海からの風が、やわらかく智の髪をくすぐっていった。  どこまでも青い空、松の|梢《こずえ》の緑、海にたつ白波。  |鮮《あざ》やかな夏の午後だった。  智が七十歳まで生きても、永遠に忘れないだろう|鮮《せん》|烈《れつ》な景色。 (——このまま時が止まればいい……)  智は、強烈にそう願っていた。  何かの予感につき動かされて、幸せそうな京介の姿を目に焼きつけながら。     第二章 三つ首の|竜《りゅう》  カラン……と氷が鳴った。  二つ並んだカルピスのグラスは、びっしりと汗をかいている。  どこからか|蝉《せみ》の声が聞こえた。  |鵠《くげ》|沼《ぬま》海岸にある|宮《みや》|沢《ざわ》秘書宅の応接間である。 「事件の|概《がい》|要《よう》をご説明いたします」  宮沢秘書は、クリアーファイルに入った資料コピーを取り出した。  どれも新聞や雑誌のコピーらしい。  ——|江《え》ノ|島《しま》|洞《どう》|窟《くつ》で|浮《ふ》|浪《ろう》|者《しゃ》死亡。  ——|呪《のろ》われた江ノ島洞窟!? 今度は|台《たい》|湾《わん》からの留学生!  ——またまた洞窟で死者が! 江ノ島に何が起こっているのか!?  センセーショナルな見出しが、目に飛びこんできた。  |智《さとる》と|京介《きょうすけ》は、宮沢秘書のむかいの|革《かわ》のソファーに座っている。 「ご覧のとおり、江ノ島の洞窟周辺で、人死にが続いております。おかげで、客足がバッタリ途絶えまして、このままですと、地元の損害額は、最終的には数十億円にのぼるのではないかと推定されます。……ところで、この洞窟は、昭和四十六年に|崖《がけ》|崩《くず》れの事故がありまして、今年の四月まで|閉《へい》|鎖《さ》されていたのです」 「閉鎖されていた……?」  智が、首をかしげた。 「はい。ところが、最近、|湘南《しょうなん》を東京からもっとも近いリゾートとして、再度認識してもらおうという動きが出てまいりまして、その目玉として、江ノ島の洞窟再開放が決まったわけです」  洞窟開放の|推《すい》|進《しん》|派《は》としては、再開放早々、いきなりこんな|不祥事《ふしょうじ》が続けば、|陰陽師《おんみょうじ》に|依《い》|頼《らい》したくもなるだろう。  宮沢秘書の|主《あるじ》である|愛《あい》|川《かわ》|美《み》|佐《さ》|子《こ》代議士は、推進派の|筆《ひっ》|頭《とう》である。男性並みの行動力と、現実的な政策で、同時期に当選したマドンナ議員たちとは一線を|画《かく》している。 「近頃では、知られておりませんが、あの洞窟は、|日《にち》|蓮《れん》や|空《くう》|海《かい》、古くは|役小角《えんのおづぬ》も修行したといわれる|霊場《れいじょう》です。|北条氏《ほうじょうし》の支配した時代には、江ノ島そのものも|禁《きん》|域《いき》とされ、無断で立ち入る者は、打ち首と決められておりました。それだけ、強力な|地《ち》|霊《れい》|気《き》を宿したポイントといえます」  |宮《みや》|沢《ざわ》秘書は、少し|照《て》れ|臭《くさ》そうに|微《ほほ》|笑《え》んだ。 「こういうお話をいたしますのも、何かの手がかりになれば、と存じまして。……といいますのも、この|洞《どう》|窟《くつ》周辺で発見された死者たちには、ある共通の異常があったからなのです」  カラン……と氷が鳴る。  |智《さとる》は、|勧《すす》められたカルピスを飲みながら、宮沢秘書の|穏《おだ》やかな顔を見ていた。 (どう見ても、あの|軟《なん》|派《ぱ》な|勝《かつ》|利《とし》の父さんには見えない……。  本当に親子なんだろうか)  そのへんが、この|温《おん》|和《わ》そうな代議士秘書とその妻のあいだに、七回もの離婚と再婚をくりかえさせる原因だろうか。  宮沢の少し悲しそうな|瞳《ひとみ》の奥に、|修《しゅ》|羅《ら》の|炎《ほのお》が燃えているようだ。  誰も見かけでは判断できないのだけれど。 (勝利があんなふうなのも……やっぱり、家庭環境のせいだろうか)  よけいな|詮《せん》|索《さく》はやめよう……と思いながらも、智は考えこんでしまう。  他人に興味を持たないほうなのに、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》と勝利のことは気になる。  心のどこかに、思い出せない|記《き》|憶《おく》が沈んでいる。  |呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》の|霊《れい》|気《き》が、何かを連想させるのだ。だが、なんだったろう……。 (思い出せない……) 「死者たちに共通した異常? なんですか、それは」  智の物思いを知らぬ|京介《きょうすけ》は、熱心に質問している。 「死者たちには、影がなかったのです。文字どおりの意味で」  宮沢秘書が、静かに言う。  京介が、息を|呑《の》む|気《け》|配《はい》。 「影がない……?」 「そうです。マスコミには、この情報がもれないように、|細《さい》|心《しん》の注意を払いました。夏の夜にふさわしい|猟奇《りょうき》事件ですからね」 「影をなくしたのが死因でしょうか……宮沢さん」  智が横目で見ると、すでに、京介の手が震えていた。  京介は、|妖《よう》|怪《かい》だの|幽《ゆう》|霊《れい》だのという|超常《ちょうじょう》現象が大嫌いだ。  これでも、だいぶ耐性がついたはずなのだが、やはり|苦《にが》|手《て》なものは苦手らしい。  智に言わせると、|筋《すじ》|金《がね》|入《い》りの超常現象嫌いのくせに、|退《たい》|魔《ま》のバイトなんか引き受けるな、ということになる。  もっとも、今回は生活費が|足《た》りなくなって、やむなく引き受けたバイトである。  京介も必死なのだ。  智は、クスッと一人笑いをもらす。 (|京介《きょうすけ》、無理しちゃって……|可《か》|愛《わい》い) 「さて、それはなんとも。警察病院からの報告では、影のない状態で発見されてから、被害者が|衰弱《すいじゃく》して死に至るまで、三日かかったそうです。ただ、もう一つ気になることがありまして……」  |宮《みや》|沢《ざわ》は、クリアーファイルのいちばん下から、数枚の写真を取り出す。  よくある海のスナップ写真だ。 「|鷹《たか》|塔《とう》先生、|鳴《なる》|海《み》さん、ここをご覧ください」  指先でさししめした一角。  京介の|喉《のど》がゴクリ……と鳴る。 「お、俺、やっぱりオカルト嫌い……かも」 「あ、そぉ、京介。オカルトが嫌いなら、|退《たい》|魔《ま》やめて、窓ふきのバイトでも探せば」  |智《さとる》は、ふふんと鼻で笑う。 「おお、言ったな! 俺はな、てめえの|四畳半《よじょうはん》に帰れば、金なんざいらねーんだよ!」  京介は、ムキになって言いかえした。  京介は、もともと、智と暮らしはじめるまで、|新宿区《しんじゅくく》|高《たか》|田《だの》|馬《ば》|場《ば》で一人暮らししていた。  四畳半、|風《ふ》|呂《ろ》なし、トイレ共同という格安のアパートだ。  アパート代を含めても、生活費は十万を切る。  京介が、智と一緒に生活しはじめて、いちばん驚いたのが、生活費のケタの違いだ。  二人の生活費が底をついたのは、智が悪い。JOAに九億円もの借金をしているくせに、一か月三十万もするマンションに入っているからだ。  智の胃が、ファーストフードか、超高級な|寿《す》|司《し》ネタしか受けつけないのもいけない。  スーパーで買ってきた|刺《さし》|身《み》を出そうものなら、「魚の|怨霊《おんりょう》がオレを苦しめる」などと、京介には言いがかりとしか思えないセリフを吐いて、|箸《はし》もつけない。  そのくせ、アワビや生ウニは、平気で食べる。  同じ|生《なま》|物《もの》でも、貝類やウニの怨霊は感じないらしい。  ファーストフードばかりでは栄養が|偏《かたよ》るので、仕方なく京介は、智の|嗜《し》|好《こう》を|尊重《そんちょう》していた。 (ただの|偏食《へんしょく》の、|超《ちょう》わがまま|野《や》|郎《ろう》なんじゃないか……)  京介は、ひそかにそう思っている。  智がそれを知れば、怒ったろうが。  宮沢秘書は、二人のじゃれあいを、見て見ぬふりをしていた。  とことん温和な性格なのか、高校生の子供ならこんなもの、と割りきっているのか。 「たまたま、近くを航行中の漁船が|撮《と》ったものです」  何事もなかったように、宮沢秘書が、写真を広げて説明する。  その指先に、黒っぽく輪を|描《えが》いているものは——。 「|海《うみ》|蛇《へび》……?」 「いや、違う。|妖《よう》|怪《かい》だ」  |京介《きょうすけ》が、断定する。  数枚の写真に写っているのは、一見、黒い|紐《ひも》に見える巨大な|化《ば》け|物《もの》。  遊園地の観覧車のように、大きな円形になっている。  なかの一枚は、望遠で|撮《と》っているが、妖怪の体がヌラヌラと油っぽく光っているのがわかる。 「これが、沖に出すぎたヨットやサーファーを沈めるのが、何件か目撃されています。今年の夏に入ってから、五人が死亡、十八人が重軽傷を負っております」 「ニュースでは聞かなかったですけど……」 「はい。こちらに関しては、JOAの命令で報道管制が敷かれておりますので。ただ……」 と、|宮《みや》|沢《ざわ》秘書は声を落とす。 「新聞・TVは押さえましたが、どこからか情報がもれまして……」  京介は、異様に|人《ひと》|気《け》のない|湘南《しょうなん》の海を思い出した。 (やっぱり……そうか)  夏の湘南といえば、人込みのすさまじさで有名である。  海に入っても、隣の人間と肩がぶつかって、泳ぐどころではない。  ただ海水に|浸《つ》かりに行くようなものだ。  それが、パラパラとしか人がいない。  ヨットの|帆《ほ》も見えないし、サーファーも片手で数えられるほどだ。  |新宿《しんじゅく》から来る電車も、そういえば、ガラガラに|空《す》いていた。  あれは、みな、湘南付近の怪事件が、口コミで伝わったせいに違いない。  人の口に戸はたてられない。 「|作《さく》|為《い》を感じる、ということですね」  |智《さとる》が、|呟《つぶや》く。何かを予感したような|瞳《ひとみ》で。 「心あたりは、宮沢さん?」 「現実的には、|推《すい》|進《しん》|派《は》|筆《ひっ》|頭《とう》の『|愛《あい》|川《かわ》|美《み》|佐《さ》|子《こ》つぶし』という線ですが……私自身は、もっと別の理由がありそうな気がいたします」 「別の理由?」 「|狙《ねら》われているのは、力のポイントである|江《え》ノ|島《しま》そのものではないかと。明治以来の国土開発は、正しい|地《ち》|霊《れい》|気《き》の流れを無視して行われました。おかげで、正しい地霊気……白い地霊気が分断され、逆に|邪《じゃ》|悪《あく》な霊を呼ぶ黒い地霊気に変わってしまったのです。そんななかで、今なお白い地霊気を保つ江ノ島は、霊的に貴重な場所です」  |宮《みや》|沢《ざわ》は、ため息をついた。 「|私事《わたくしごと》ですが、私が、JOAに|自《じ》|己《こ》|申《しん》|告《こく》して、|霊力《れいりょく》を|封《ふう》|印《いん》してから四年たちます。|勘《かん》もすっかり|鈍《にぶ》りました。もう、普通の人間と変わらないと思っておりました。……それなのに、ここ一か月というもの、明け方になると誰かの|嫌《いや》な霊気を感じて、|布《ふ》|団《とん》のなかで目が覚めるのです」 「嫌な霊気……誰のです?」 「わかりません。ただ、ひどく|憎《ぞう》|悪《お》に満ちた霊気でした。殺意を含んでいる感じです。|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》……かもしれません。どうか、|鷹《たか》|塔《とう》先生、お気をつけて」  宮沢が、テーブルに両手をついて、深々と頭を下げた。 「私にこんなことを申しあげる権利はないかもしれません。ですが……未来に生まれてくる子供らのために、この海と島をお守りください」  その時だった。  応接間の|気《け》|配《はい》が変わる。 「え……?」  |智《さとる》が、勢いよくドアのほうを振りかえった。|凜《りん》とした|瞳《ひとみ》には、別人のような|鋭《するど》い光がある。 「どうした、さとる……?」 「誰かいる。敵だ。|妖《よう》|気《き》がある」  智が、素早く〈|呪《じゅ》|符《ふ》DR〉と呪符カードを取り出した。そのまま、ドアにむかって突進する。  |京介《きょうすけ》も、短パンのポケットから、十五センチほどの金属片を引き抜く。  金属片を|掲《かか》げて、意識を集中する。 「|顕《けん》|現《げん》せよ、|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》・|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》!」  叫んだとたん、京介の全身に|激《げき》|痛《つう》が走った。 「う……ぐっ……!」  百万本もの針でつらぬかれたような痛み。  だが激痛は一瞬で消えた。  京介は、金属片を握った右手を前に突きだした。  |弾《はじ》ける純白の光。  金属片は、一メートルほどもある純白の光の|刃《やいば》に変わった。  |柄《つか》の先端部分が、|鷹《たか》の頭になっている。  どこか、|古《こ》|墳《ふん》から出土した古代の|剣《つるぎ》を連想させる。  これが、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》。  神も|魔《ま》も|斬《き》り|裂《さ》くという、|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》であった。  |宮《みや》|沢《ざわ》秘書が、天之尾羽張に気づいて、|驚愕《きょうがく》の表情を浮かべる。 「天之尾羽張……まさか……?」  |京介《きょうすけ》は、|智《さとる》のあとを追って、ドアの外に飛びだした。  薄暗い|廊《ろう》|下《か》。  |檜《ひのき》の|匂《にお》いがする。  前方をバタバタと走る白いシャツの背。  廊下の曲がり角で、智が立ち止まった。 〈|呪《じゅ》|符《ふ》DR〉に呪符カードをセットしている。 「京介」  智は、早口に言いながら、振りかえりもしない。  後ろに、いつも京介がいると確信している。 「|援《えん》|護《ご》して! 呪符が出るまで一・五秒かかる!」 「どうした、いたか?」  京介は、降魔の利剣を|掲《かか》げ、智の前に飛びだした。 「げっ……!」  敵は、そこにいた。  三つ首の小さな|竜《りゅう》。  玄関から|射《さ》しこむ光を背にしている。大きさは、馬ほど。|翼《つばさ》の端が、きゅうくつそうに壁に押しつけられている。毒々しいオレンジ色だ。  |鱗《うろこ》が硬いのか、壁が|削《けず》れてパラパラ落ちてくるのが見えた。 「オ、オカルトは嫌いだ……」  京介は、思わず後ずさった。  てっきり、相手が人間だと思ったから、智のあとを追いかけてきたのだ。 「いきなり竜が出るか、おい! ゲームでも、ドラゴンが出んのは、フツー最後だぞ!」 「天之尾羽張は、最強だ。あとは、あんたの勇気だけだ。京介、ビビるな!」  |紫《むらさき》の光を流星のように引いて、七枚の呪符が宙に飛ぶ。  三つ首の竜が、ボボボッ……と小さな火を吹いた。  呪符は、すべて空中で焼けて、消滅した。  ピーピーピー。  ピーピーピー。 〈呪符DR〉のなかの呪符カードが、電子音をたてて吐きだされてくる。  カードの表面に、くっきりと「使用済み」の文字。 「ちぃ……|呪《じゅ》|符《ふ》カード、高かったのに! こんなんじゃ|詐《さ》|欺《ぎ》だ!」  |智《さとる》が、毒づきながら、次の呪符カードを|挿入口《そうにゅうぐち》に|叩《たた》きこむ。 「CDはどこだ。あれ使って、|式神召喚《しきがみしょうかん》したほうがいいぜ」  |京介《きょうすけ》は、半分逃げ腰だ。  |天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》が最強だといわれても、実感などない。  せめて、もう少し弱そうな外見の敵だといいのに。 「CDは、オレのスーツケースのなか!」 「じゃ、俺、取ってくるわ! それまで、よろしくな、さとる!」  二枚目の呪符カードが、呪符を|弾《はじ》きだす。  |紫《むらさき》の光が流れる。  ボボボッ……。  再び、焼け落ちる呪符。  京介は、三つ首の|竜《りゅう》に背をむけるタイミングを失った。  今、背中を見せれば、|容《よう》|赦《しゃ》なく火を吹きかけられる。 「なんてこった……」 「こいつは、オレがやる。京介は下がれ」  |智《さとる》は、〈|呪《じゅ》|符《ふ》DR〉を使うのをあきらめたようだ。すでに|印《いん》を結びはじめている。  智の横顔は、別人のように尊大だ。自信に満ちた|傲《ごう》|慢《まん》な|瞳《ひとみ》。  |陰陽師《おんみょうじ》の顔だ。 「さとる……無理はすんなよ」 「バカ言ってんじゃないよ、|京介《きょうすけ》。オレたちは、|退《たい》|魔《ま》しに来たんだ」  ゆらゆら……ゆらゆら……。  青い|霊《れい》|気《き》が、智の体を包みはじめるのと一緒に、三つ首の|竜《りゅう》も頭や|翼《つばさ》を揺らしだす。  普段は、陰陽師としての|記《き》|憶《おく》がない智だ。  だが、危機の時は、術を覚えた体が先に動くらしい。 「ナウマク・サマンダ・ボダナン・アビラウンケン!」  陰陽師の|唇《くちびる》が動く。|真《しん》|言《ごん》が響きわたる。  突然、智の全身から、青い光がほとばしった。 「|破邪誅伐《はじゃちゅうばつ》!」  三つ首の竜が、光に吹き飛ばされるようにして、フッと消滅した。  コツン……!  何か、小さくて固いものが|床《ゆか》に落ちる音。  智が、よろめき、壁にもたれかかった。  そのまま、智の体は、ずるずると床に倒れこんでいく。  ふいに、パチパチと手を|叩《たた》く音が聞こえてきた。 「さすが天才陰陽師や」  |軟《なん》|派《ぱ》なテノールの声。  玄関に、黄色のバンダナをした不良少年が立っていた。  |軽《けい》|薄《はく》な顔に、|皮《ひ》|肉《にく》めいた|笑《え》みがある。 「わいが手助けするまでもなかったわ」 「|大《おお》|阪《さか》|野《や》|郎《ろう》……」  京介は、智を|抱《かか》え起こそうとした手を止める。  |勝《かつ》|利《とし》は、ずかずかと上がってきた。自分の家に入るのに、遠慮があるわけはない。  |廊《ろう》|下《か》の端で足を止めて、|屈《かが》みこむ。何か拾いあげたようだ。 「なんや……|傀儡《く ぐ つ》があるわ」 「くぐつ……?」 「傀儡も知らんのか、サル顔野郎。術者の念をこめて使う|呪《じゅ》|具《ぐ》や。|人《ひと》|形《がた》をしているのが普通やけど」  勝利がぬっと手を差しだす。  その手のひらの上には、三センチほどの|土《ど》|偶《ぐう》がのっている。素焼きのままの、明るい色。サーモンピンクに近い色だ。  さっき落ちたのは、これだろう。 「これがくぐつか?」 「の、一種やな。敵さん、これを中継器にして、念を飛ばして、攻撃してきたっちゅうわけや。油断ならんわ」  |勝《かつ》|利《とし》は、|呆《あっ》|気《け》にとられた|京介《きょうすけ》にむかってニッと笑ってみせる。 「何|怯《おび》えとるん。この|傀儡《く ぐ つ》は、そこの|鷹《たか》|塔《とう》センセに念を|弾《はじ》かれて、壊れたんや。もう使いもんにならん。|怖《こわ》いことないでぇ」  傀儡の頭がポロリと取れた。次の瞬間、素焼きの|土《ど》|偶《ぐう》は砂のようにボロボロ|崩《くず》れ落ちる。 「ほら、ゆうたとおりやろ」  勝利は、えらそうに胸をはる。  ただの|超常《ちょうじょう》現象マニアではないらしい。事情にくわしすぎる。 (こいつ……術者か?)  京介は、反射的に|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を構える。相手が、人間の形をしているなら戦える。 「なんや、わいに|喧《けん》|嘩《か》売る気か、サル顔|野《や》|郎《ろう》」 「おめーが|怪《あや》しすぎるんだよ!」 「|他人《ひ と》んちのなかで、天之尾羽張、振りまわさんといてや」 「おい……ちょっと、なんでこれが天之尾羽張だってわかるんだ」 「業界の常識や。|邪《じゃ》|神《しん》・|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》を|封《ふう》|印《いん》しとった|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》が、|砕《くだ》けて、|行《ゆく》|方《え》|不《ふ》|明《めい》ゆーのはな。そんな力ある神剣が、二本も三本もあってたまるか。そこにあるんは、天之尾羽張の砕けた一部や。わいの目に狂いないわ。|剣《つるぎ》の|神《しん》|霊《れい》は入ってへんけど、ちゃんと実体化しとるやんか」 「うるせえ! グタグタと偉そうにウンチクたれんな! 俺は、オカルトがでーっきれえなんだよっ!」  不良少年は、|哀《あわ》れむような目を京介にむける。 「アホやな、あんた」 「うるせー! てめえ! やる気か!」  京介の戦意が|高《こう》|揚《よう》してきた瞬間。 「ダーメ、京介ぇ」  のんびりとした|仲裁《ちゅうさい》の声が入る。 「お|家《うち》のなかで|喧《けん》|嘩《か》しちゃダメだよお」 「さとる……おい……」  |京介《きょうすけ》は、恐る恐る壁ぎわにいる|相《あい》|棒《ぼう》を見る。  |智《さとる》の様子が変だ。  |怖《こわ》い目のシベリアンハスキーが、天使のような美少年に変わってしまった。  ひどく無防備で、|綺《き》|麗《れい》な表情。  普段、無意識のうちに作りだしている、精神のガードがない状態だ。 「ね、京介?」  小首をかしげて同意を求める|可《か》|憐《れん》な姿。  思わず、京介の全身の力がぬける。 「は……ははは……なんてこった」 「|鷹《たか》|塔《とう》センセ、どないしたん?」  |勝《かつ》|利《とし》が|不《ふ》|審《しん》そうに|呟《つぶや》く。 「予想しとくべきだった……!」  京介は、片手で顔をおおった。  また、あれ[#「あれ」に傍点]が起こったわけだ。      *    *  極度の|霊力《れいりょく》の|消耗《しょうもう》で、智は一時的に幼児のようになっていた。  回復するには、少なくても、丸一日はかかるだろう。 「だから、言ったじゃないの、京介君。智が霊力使わなきゃなんない時は、CD使って|式《しき》|神《がみ》出して、先に敵の力を|削《そ》いでおきなさいって」  電話のむこうから聞こえてくる女の声は、少し|苛《いら》|立《だ》っている。 「でも、|麗《れい》|子《こ》さん、あんな小さな|竜《りゅう》くらいで、智があんなに消耗するなんて思わなかったし」  京介は、|宮《みや》|沢《ざわ》|邸《てい》から徒歩二分の公衆電話ボックスにいる。  言えば、宮沢秘書が電話を貸してくれたのだろうが、会話の内容を|他人《ひ と》に聞かれたくなかった。  夏の日も、すでに暮れていた。  国道一三四号線を走り過ぎる車のライトが、この電話ボックスを照らしだす。  電話している相手は、|百《もも》|瀬《せ》麗子。  智のJOA時代の同僚で、|凄《すご》|腕《うで》の|犬《いぬ》|神《がみ》|使《つか》いである。JOAを脱会した現在は、智の|後《こう》|見《けん》|人《にん》として、それなりに|智《さとる》と|京介《きょうすけ》のことを心配してくれている。  今回の|退《たい》|魔《ま》にもついてくるはずだったが、事情があって、北海道に飛んでしまった。  つまり、これは涙の長距離電話というやつだ。 「どうしたらいい、俺たち、これから?」 「メロドラマみたいな|台詞《せ り ふ》吐くんじゃないわよ。とにかく、智は明日になれば、正気に戻るんだから、気がつきしだい、すぐに|式《しき》|神《がみ》を|召喚《しょうかん》なさい。今回の仕事が完了するまで、絶対に式神召喚用のCD止めちゃダメ。京介君が責任もって管理して」  |耳《みみ》|障《ざわ》りな電子音と一緒に、テレホンカードの度数がゼロに変わる。 「ああっ! |麗《れい》|子《こ》さんっ! テレホンカードが切れたぁっ!」 「バカ! |霊《れい》|気《き》|登《とう》|録《ろく》したカードは? あなたたちの出発前に渡したでしょ!」 「霊気登録っ? カード?」  京介は、狭い電話ボックスのなかでジタバタしてしまう。  と、その時、ドアが勢いよく開いた。  黄色と白のヨットパーカの少年が、|強《ごう》|引《いん》に入ってくる。 「え……?」 「霊気登録したカードなら、ここにもあるで」  |勝《かつ》|利《とし》だった。  不良少年は、ニヤニヤ笑いながら、一見普通のテレホンカードを差し込み口に入れた。  通話度数が、いきなり十万度になる。電子音がピタリとやんだ。 「ちょ……ちょっと! 十万度って……これ、違法の変造カードじゃねーの?」 「アホ。霊気登録っつうのは、霊力のある|奴《やつ》同士の通話にしか使えんのや。このカードはちゃんと、JOAがNTTと|提《てい》|携《けい》して製造・販売しとる、ありがたいテレホンカードや。霊力あらへん奴には、音声はノイズでしか聞こえんよって、|盗聴《とうちょう》防止には最高や」  勝利は、|呆《あっ》|気《け》にとられた京介にむかって意地悪く笑ってみせる。 「もっとも、公衆電話でそない大声出して話しとったら、道歩いてるもんにも、一発で聞こえてまうがな」  電話のむこうで、麗子が、|不《ふ》|審《しん》そうな声を出す。 「もしもし……京介君? そこに誰かいるの?」  京介は、|慌《あわ》てて送話口に口をよせる。 「悪い、麗子さん。また改めて電話する。夜遅く、ごめん」  カチャン……と小さな音をたてて、受話器を置く。  少年二人は、狭い公衆電話ボックスのなかで|睨《にら》みあった。  ピーピーピー……。  吐きだされてきた|霊《れい》|気《き》|登《とう》|録《ろく》のテレホンカードを、|勝《かつ》|利《とし》が|京介《きょうすけ》に差しだした。 「やる」 「なんでだよ」 「相手、女やろ。わいは女には優しいんや。途中で切って、よけいな心配かけるもんやないで」  受けとれと、カードを京介の目の前で振ってみせる。  |嫌《いや》がらせとも、不器用な親切ともとれる態度だ。  だが、どうも、京介と|麗《れい》|子《こ》の関係については、激しい誤解があるようだ。 「麗子さんと俺は、そういう関係じゃねーよ。だいたい、なんなんだよ、おまえは。いきなり乱入してきて」 「|他人《ひ と》んちの近くの公衆電話で、夜中にコソコソ電話かけるような|真《ま》|似《ね》するからや。ゆうとくがな、わいは、たまたま通りかかっただけやからな」  勝利は、たいしたことはないというふうに肩をすくめ、電話ボックスを出た。  カードは、|無《む》|造《ぞう》|作《さ》に公衆電話の上に置き捨ててある。 「ふう……暑い夜やわ」  自宅のほうへ歩きながら、不良少年は大きくのびをする。照れたような|仕《し》|草《ぐさ》。  京介は、テレホンカードを持って、勝利を追いかけた。 「こんなもの、もらうわけにはいかねーよ。……高いんだろ、この十万度ってのは」 「気にせんでええわ。たかだか十万円のはした金や」 「……ほう」  |智《さとる》と一緒に暮らしはじめるまでは、一か月の生活費が、アパート代こみで八万円だった京介である。  十万円もするカードを、簡単に他人にやってしまう勝利の感覚は、理解できない。 (この|成《なり》|金《きん》の|大《おお》|阪《さか》|野《や》|郎《ろう》が……)  貧乏だからってバカにするなと、カードを地面に|叩《たた》きつけてやろうか、それとも、正面から突っ返そうかと迷った時、 「なあ、ナルミちゃん。|鷹《たか》|塔《とう》センセは、普通の状態やあらへんなあ」  物思わしげな声で、勝利が|呟《つぶや》く。  京介は、ギクリとして不良少年の背中を見つめた。  智が、|記《き》|憶《おく》を失っていることは、絶対に知られてはいけない。  そんな弱みがバレたら、今まで、天才|陰陽師《おんみょうじ》・鷹塔智を敵視していた二流、三流の連中が、|牙《きば》をむきだす。  今、弱くなってしまった智を守れるのは、京介しかいないのだ。  京介は、|我《われ》知らず、ギュッと両手を握りしめていた。 「|探《さぐ》りを入れてるわけやないで。けどな、超一流とか、千年に一人とかいわれた|鷹《たか》|塔《とう》センセがやで、あんな|傀儡《く ぐ つ》一つ退治すんのに、あのざまや。誰が見たって|怪《あや》しい思うわ」 「|勘《かん》|繰《ぐ》りすぎだぜ」 「あんたの|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》……|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》もな、正気の鷹塔|智《さとる》やったら、絶対にあんたには握らせへんで」  |勝《かつ》|利《とし》は、くるりと|京介《きょうすけ》を振りかえった。  ファニーフェイスに、|苛《いら》|立《だ》ちの色がある。 「アホやな、あんたらは……。このまま|退《たい》|魔《ま》続けよれば、二人仲よく破滅するわ」 「なんだよ……破滅? |縁《えん》|起《ぎ》でもねーな。天之尾羽張がなんだっていうんだ」 「天之尾羽張は、イザナギの|剣《つるぎ》。神の剣や。人が使う剣やない。あんた、このまま天之尾羽張使いつづければ、悲しいことになるで」  |不《ふ》|吉《きつ》なことを言うものだ。  京介は、勝利を|睨《にら》みつけた。 「そんなこと言って、俺を動揺させようってのかよ。おまえ、何様のつもりだ」 「わいは|呪《じゅ》|禁《ごん》|師《じ》や。鷹塔センセの同業者やねん。ただし、わいは|呪《じゅ》|殺《さつ》も|請《う》け|負《お》う」 「何ぃ……?」 (こいつ、呪殺者か……?)  京介は、考えるより先に、行動していた。  短パンのポケットから、十五センチほどの金属片を取り出す。  頭上に|掲《かか》げた。 「|顕《けん》|現《げん》せよ、降魔の利剣・天之尾羽張!」  金属片に意識を集中する。純白の光が|弾《はじ》けた。  京介は、純白の光の剣を勝利にむける。 「呪殺者は許せねえ。|誅伐《ちゅうばつ》してやる!」 「やめんか、ナルミちゃん。天之尾羽張はあかん! 使うな!」  勝利は、素早く京介の|死《し》|角《かく》にまわりこむ。 「誰がナルミちゃんだ! |馴《な》れ|馴《な》れしい!」 「なら、サル顔|野《や》|郎《ろう》のほうがええんか。落ち着いて、わいの話を聞けや」  不良少年は、京介の攻撃をものともせずに、剣の切っ先をヒョイヒョイとかわしている。 「……なんだよ。早く言え」  京介は、ようやく相手に敵意がないことに気がついた。  |渋《しぶ》|々《しぶ》ながら、天之尾羽張を、もとの金属片に戻す。  その時だった。  |宮《みや》|沢《ざわ》|邸《てい》のほうで小さな物音がした。 「何をやっている、二人とも」  |傲《ごう》|慢《まん》な声が聞こえてきた。  |京介《きょうすけ》は、|弾《はじ》かれたように後ろを振りかえった。 「さとる……」  |街《がい》|灯《とう》に照らしだされて、白い姿が立っている。  |幻《まぼろし》のような|美《び》|貌《ぼう》。  |凜《りん》とした|瞳《ひとみ》が、冷ややかに京介と|勝《かつ》|利《とし》を見つめていた。  ひどく大人びた|高《こう》|貴《き》な表情。  |陰陽師《おんみょうじ》の顔だ。  京介は、思わず息をのんだ。 「正気に……戻ったのか」  通常なら、丸一日はボーッとなった状態のはずだ。  だが、今の|智《さとる》は|霊《れい》|気《き》の|消耗《しょうもう》などかけらも見せない。 「誰かの|嫌《いや》な霊気を感じて、急に目が覚めた。あの霊気は、オレに挑戦してきている」 「さとる……どうしたんだ?」  智の|口調《くちょう》が違う。別人のように尊大だ。  勝利が、ヒュウと|口《くち》|笛《ぶえ》を吹く。 「これや、これが|鷹《たか》|塔《とう》智や。千年に一人の天才陰陽師や」 「どういうことだ、勝利君」 「|鈍《にぶ》いで、ナルミちゃん。鷹塔智は、挑戦してきた嫌な霊気に危険を感じとるんや。だから、普段眠っとる部分までフル|稼《か》|動《どう》で、起きだしてきよったん。今の鷹塔智が、本物なんや。見えるか、すごい霊気やで」  京介には、智の霊気の差まではわからない。  智は、しばらく国道のむこう、海の方角を見つめていた。 「|赤《あか》|沼《ぬま》|英《えい》|司《じ》……あんたか……」  低い|呟《つぶや》きがもれる。  ふいに、智の|気《け》|配《はい》が変わった。  絶対的なカリスマに満ちた陰陽師は消え、代わっていつもの鷹塔智がそこにいる。 「京介……」  すがりつくような瞳が、京介にむけられる。 「赤沼英司ってのは、なんなんだよ、さとる」 「あかぬまえいじ……? 知らない」 「おまえが今言ったんだよ。覚えてない?」  智は、頼りなげな|仕《し》|草《ぐさ》で首を横に振る。 「無理や、ナルミちゃん。あっちの|鷹塔智《たかとうさとる》は、とりあえずの危険はないと判断したんやろ。あっちの鷹塔智と、こっちの鷹塔智は、別人やと思うといたほうがええで」  |勝《かつ》|利《とし》が、無遠慮な大声で言う。 「本当に覚えてないのか、さとる」  |京介《きょうすけ》が尋ねると、智はコクンと小さくうなずいた。 「気がついたら、あんた、そばにいないし……」  美少年は、軽く京介を|睨《にら》みつける。シベリアンハスキーのような|怖《こわ》い目つきだ。 「いつも言ってるでしょ。オレが寝てる時は、そばを離れないでって」  甘えるような言葉。  京介の|頬《ほお》が自然とゆるんでしまう。 (ああ……もう、おまえって本当に……) 「悪かったな、さとる」  智は、満足げに微笑した。 「オレのそばを離れないで」  どんな美女よりも、京介の心を激しく動かす|笑《え》|顔《がお》。  智は、飛び|跳《は》ねるような足どりで、京介に駆けよってくる。  保護者を見つけた小動物、といった感じだ。 「心配かけたな、さとる」  京介の言葉に、智は「あんたの心配なんかしてない」と|舌《した》を出す。  それでも、うれしそうな表情は隠せない。 「何、ニヤケとんのや。|不《ぶ》|気《き》|味《み》な顔しよって」  勝利は、えへらえへらと笑っている京介の姿に、ケッと|呟《つぶや》く。 「幸せな|奴《やつ》らやな」     第三章 |約束《プロミス》  リーン……リーン……。  どこかで|鈴《すず》の|音《ね》が響いていた。  深い|闇《やみ》のなかである。 「|鷹塔智《たかとうさとる》へ送った|傀儡《く ぐ つ》は破壊されたか……」  変声期を過ぎた若い男の声。 「そのようです、|英《えい》|司《じ》|様《さま》」  |透《す》きとおる少女の声が、最初の声に|応《こた》える。 「やれやれ、おかげでキングギドラのぬいぐるみが台無しだ……|可《か》|愛《わい》かったのに」 「そうですわね、英司様」  鈴の音に重なって、|潮《しお》|騒《さい》が聞こえる。  ボ……。  ライターの|炎《ほのお》が闇を照らしだした。浮かびあがった顔は——JOA所属の若き|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》・|赤《あか》|沼《ぬま》|英《えい》|司《じ》。  |額《ひたい》に、白っぽく|斜《なな》めの|傷《きず》|痕《あと》がある。 「|鈴《すず》|蘭《らん》、台風はいつ来る?」 「二日以内に、かならず」 「では、その前に、天才|陰陽師殿《おんみょうじどの》をこの|洞《どう》|窟《くつ》にご招待しなくてはな」  赤沼は、ライターを消し、|舗《ほ》|装《そう》された洞窟の道を歩きだした。  ほどなく、赤沼は海ぞいの|断《だん》|崖《がい》に出た。後ろからは、忠実な|式《しき》|神《がみ》の鈴蘭が、音もなくついてくる。  式神は、|華《きゃ》|奢《しゃ》な美少女の姿をとっていた。  顔だちが、どこか智に似ている。正確には、十二歳の時の智に。  青い月の光が、呪殺者と式神の上に降り注ぐ。  |湘南《しょうなん》の海は、月光に照らされて、銀色に光っていた。 「|妖《よう》|怪《かい》〈いくぢ〉は二日後までもつか、鈴蘭?」 「もたせましょう。〈いくぢ〉には、|弁《べん》|天《てん》|橋《ばし》と|江《え》ノ|島《しま》|大《おお》|橋《はし》を破壊してもらわねばなりません」  赤沼は、満足げに|微《ほほ》|笑《え》んだ。  その手のなかには、なかば|焦《こ》げて変色した、キングギドラのぬいぐるみがある。昼の光の下ならば、ぬいぐるみは、オレンジ色に見えるはずだ。  |傀儡《く ぐ つ》を中継器として、念を|増《ぞう》|幅《ふく》して送ったのは、このぬいぐるみをイメージして作った|鬼《おに》だ。  一種の|幻《まぼろし》だが、かなりの攻撃能力がある。  もちろん、|智《さとる》のもとに投影された幻は、立派な三つ首の|竜《りゅう》だったはずである。 「智……この世の誰にもできないやり方で、おまえを殺してやる」  |赤《あか》|沼《ぬま》は、片手で|鈴《すず》|蘭《らん》の肩を抱きよせ、クツクツと笑いはじめた。      *    *  |湘南《しょうなん》での第一夜。  智は、用意された|宮《みや》|沢《ざわ》|邸《てい》の一室で、眠れずにいた。  屋敷の離れにある、古びた洋風の客用寝室である。  ラヴェンダーの香りが|漂《ただよ》っている。  かすかに波の音が聞こえた。  |枕《まくら》が変わると眠れない……という|質《たち》ではない。 「う……ん……」  |糊《のり》のきいたシーツのあいだで二転三転する。  眠れないのは、悩みがあるせいだ。  頭のなかに、三時間ほど前に聞いた|勝《かつ》|利《とし》の言葉が、何度も|木《こ》|霊《だま》していた。  ——|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》は、イザナギの|剣《つるぎ》。神の剣や。人が使う剣やない。  ——このまま天之尾羽張使いつづければ、|鳴海京介《なるみきょうすけ》、あんた、普通の人間やなくなるで。  ——時が早まるんや。  ——|霊力《れいりょく》を|消耗《しょうもう》して、急激に|衰弱《すいじゃく》して……一日に|他人《ひ と》の一年分が過ぎてくようになる。  ——あっという|間《ま》に老人やで。  ——ほっとけば、鳴海京介、あんた、あと二か月生きられへんわ。  勝利は、気の毒そうな顔で、|残《ざん》|酷《こく》なことを宣言した。  ——もちろん、今すぐそうなるゆうことやない。天之尾羽張の影響が出るまで、もうしばらく余裕はあるやろ。  その余裕は、おそらく、あと数回、剣を抜ける程度。  長時間の戦いになれば、京介の体に影響が出はじめる。 (連れてこなきゃよかった……)  智は、暗い|天井《てんじょう》を見あげた。 (こんなことなら……|退《たい》|魔《ま》のバイトなんか引き受けなきゃよかった……)  京介は、勝利から話を聞いたあと、一人で自室に閉じこもってしまった。  だいぶショックを受けた様子だった。  無理につくる|笑《え》|顔《がお》が、痛々しかった。 (これで、|相《あい》|棒《ぼう》やめるって言われても……オレには何も言えない)  |目《め》|尻《じり》から涙があふれ、|頬《ほお》をつたう。 「|京介《きょうすけ》……ごめん……」  |智《さとる》は、|枕《まくら》に顔を|埋《うず》め、|唇《くちびる》を|噛《か》みしめた。  |記《き》|憶《おく》をなくした智を、たまたま拾ってくれた大柄で色黒の少年、|鳴《なる》|海《み》京介。  智は、何も覚えていなかったから、世界じゅうのすべてが|怖《こわ》かった。  京介に対しても、つい攻撃的になってしまって。  それでも、京介は、優しかったのだ。  悲しくなるほどお|人《ひと》|好《よ》しで、善良で——。  京介は、時間をかけて、少しずつ智のなかに入りこんできた。  |手《て》|負《お》いの|獣《けもの》を拾って、飼い慣らすように。 (|嫌《いや》だ……今になって、あんたをなくすのは……)  智は、|嗚《お》|咽《えつ》をこらえる。 「こんなのって……京介……」  泣いてはいけない。  京介のほうが、もっとつらいのだ。  京介も、たった一人で、きっと今も、智と同じように眠れないでいる。  壁をへだてた隣の部屋で。  どんなにか不安だろうに、智には、それをどうすることもできない。 (京介……京介……京介……!)  窓から|射《さ》しこむ青い月の光が、|床《ゆか》に|淡《あわ》い影を落としていた。  何もかも死に絶えたような静けさ。  心臓の|鼓《こ》|動《どう》だけが大きく聞こえる。  智は、ふいに、ガバと起きあがった。  両手で、頬の涙をゴシゴシこする。 「泣いてる場合じゃない」  超人的な努力で、気分を切り替える。  ベッドから|滑《すべ》り降り、床に置いたCDラジカセの演奏ボタンを押した。  セクシーな男性ヴォーカルが、低く流れだした。  曲に重なって、ラップのような|式神召喚《しきがみしょうかん》の|咒《じゅ》が聞こえる。  コンマ数秒遅れて、一人の青年が出現した。  原色系のシャツと短パン。金茶色の髪と茶色の|瞳《ひとみ》を持つ式神である。 「呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン! |紅葉《も み じ》ちゃん、参上……おや?」  陽気な声で騒ぎはじめた紅葉は、|智《さとる》の様子に首をかしげる。  |享楽的《きょうらくてき》な顔が、一瞬、別人のような厳しい光を宿す。  その表情の変化は、薄暗い部屋のなかで、智には見えなかった。 「どしたの、マスター? 泣いてた?」  どうして、こいつはこんなに目ざといんだろう……と、智は内心、困ってしまう。 「言いたくないんなら、いいよん。で、ご命令は?」  紅葉は、|式《しき》|神《がみ》にあるまじく、気をまわす。  普通にしていれば、紅葉が人間でないと気づく者はいないだろう。 「|江《え》ノ|島《しま》の|洞《どう》|窟《くつ》周辺で、影を|盗《と》る者がいるらしい。それから、やはり江ノ島周辺の海で、|海《うみ》|蛇《へび》に似た|妖《よう》|怪《かい》が暴れまわっているらしい。で、オレとしては、犯人につながる情報が欲しい。それから、|赤《あか》|沼《ぬま》|英《えい》|司《じ》って|奴《やつ》に関しても情報があれば」 「情報収集だね、マスター」 「うん……とりあえず、敵がわかれば、オレだけでも|退《たい》|魔《ま》できるかもしれないし」  智は、|京介《きょうすけ》を東京に帰すつもりだった。  このままそばにいたら、絶対に京介は、智のために|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を抜く。  そんなことをさせるわけにはいかなかった。  紅葉は、思いつめたような智の様子に、少しため息をついたようだった。  何か言おうとしてためらい、結局、別のことを言う。 「おいらに情報収集に行けってのが、マスターの命令なら、|逆《さか》らえないけどさ。でも、|記《き》|憶《おく》|喪《そう》|失《しつ》のマスターのために注意しとくと、おいらは情報収集にはむかないよん。おいら、|戦《せん》|闘《とう》|用《よう》の式神だもん。調べまわるような頭ないよう」 「戦闘用……?」 「情報収集なら、専用のがいるよ」  それは誰だと、智が質問するのも待たず、紅葉は勝手に智のスーツケースを開く。  ゴソゴソとかきまわしたかと思うと、一枚のCDを取り出した。  月の光に照らされて、ディスクの表面に「|睡《すい》|蓮《れん》」というレーベルが見えた。 「睡蓮……彼が情報収集専用?」  紅葉も、睡蓮も、|陰陽師《おんみょうじ》・|鷹《たか》|塔《とう》智の作った、四体の式神のうちの一体である。  やはり、CDに録音した|召喚《しょうかん》の|咒《じゅ》によって、呼びだすことができる。 「そ、睡蓮が適任よ、マスター。じゃ、おいらは、帰らしてもらいたいんだけどなあ」  紅葉は、|猫《ねこ》のようにスリスリと智にすりよる。 「お酒飲むとか、一晩ディスコで踊るよーな命令の時に呼んでね」 「紅葉……退魔は遊びじゃないんだよ」 「わかってるよう」  |智《さとる》の肩に腕をまわした|紅葉《も み じ》の|瞳《ひとみ》が、優しくなる。  |式《しき》|神《がみ》は、あさってのほうを見ながら、|主《あるじ》の耳もとに低い声でささやく。 「あんまり無理すんじゃないよ、マスター。式神には、マスターの気持ち、ダイレクトに伝わるんだからね。悲しい時は、一人でいちゃダメだよん」 「紅葉……」  驚いたように身をもぎはなす智。 「こんな時のために、|京介《きょうすけ》っていう大事な|奴《やつ》がいるんでしょーが」 「何……言って……」  智の|頬《ほお》がカッと赤くなる。 「二人で|慰《なぐさ》めあったら?」  紅葉は、いたずらっぽく智の|額《ひたい》をつんとつつき、次の瞬間、姿を消した。  CDが、自動的に止まる。  智は、少しばかり乱暴にCDを入れ替え、演奏ボタンを押した。  アップテンポの曲と一緒に、別の式神が出現する。 「お呼びでございましょうか、|上主《じょうしゅ》。|睡《すい》|蓮《れん》にございます」  長い黒髪、黒い瞳。ブラックジーンズに、黒いノースリーブのシャツという姿だ。  智は、鏡を見ているような|錯《さっ》|覚《かく》におちいる。髪の長さをのぞけば、睡蓮は智と|瓜《うり》|二《ふた》つだ。  そのせいか、智はこの式神が|苦《にが》|手《て》だった。  ノリのいい紅葉と違って、|慇《いん》|懃《ぎん》|無《ぶ》|礼《れい》だし、時々、平気で|刺《とげ》のあることを言う。  |雰《ふん》|囲《い》|気《き》も|妖《よう》|艶《えん》で、どこか|翳《かげ》りをおびている。 「睡蓮、情報収集してもらいたい」 「は……」  智は、紅葉に言ったのと同じ命令をくりかえした。そそくさと睡蓮を送りだす。  式神は、宙に消える前に、一瞬、智を見つめたようだった。  保護者然とした|笑《え》みが、睡蓮の|唇《くちびる》に浮かぶ。 「上主、さしでがましいとは存じますが……」 「何?」 「目が真っ赤です。お顔を洗ってこられたほうがよろしいのでは」 「…………」  思わず、智は、CDを|叩《たた》き壊したい|衝動《しょうどう》にかられた。 (|陰陽師《おんみょうじ》にプライバシーはないのか!)  |憤《ふん》|然《ぜん》として、何か言い返してやろうと目をあげた時。  睡蓮の姿は、すでになかった。  その時、ドアを|叩《たた》く控えめな音がした。  |智《さとる》は、ぎょっとした。 「誰です」 「……起きてた? さとる」  |京介《きょうすけ》の声だ。 「何か人の声が聞こえたからさ。気になって……」  智の心臓の|鼓《こ》|動《どう》が速くなる。  そっとノブに手をかけ、ドアを薄く開く。  京介がいた。  |半《はん》|袖《そで》のストライプのパジャマを着て、|裸足《は だ し》で立っている。 「いいか、今……?」  遠慮がちな声。  智は、黙って、京介を室内に招き入れた。 「泣いてたのか、さとる」  智のベッドに腰かけるなり、京介は心配そうに尋ねる。 「俺のせいか?」  ここはごまかしても|無《む》|駄《だ》だろうと、智は判断した。  どうせ、いつかは話しあわなければならなくなる。 「京介……」  東京へ帰って、と言おうとして、智は、突然混乱した。  京介の顔を見ると、用意していた言葉が、すべて消え失せる。  たったひとことが、どうしても言えない。 「京介……京介……」 (こんなのは、|嫌《いや》だ……!)  生まれて初めての、激しい感情の|嵐《あらし》が襲ってくる。  智は、ゆっくりと手をのばした。  京介の肩をつかむ。|逞《たくま》しい肩に顔を|埋《うず》めた。 「嫌だ……京介! 嫌だ……!」 「さとる、おい、さとる!?」  驚いたように、京介が智の体を揺さぶる。 「絶対に嫌だ! こんなの嫌だっ!」 「さとる、落ち着け。夜中だから、な。声を小さくしてくれ」  智は、首を横に振った。何度も何度も。  自分のなかに、こんな|嵐《あらし》があるなんて知らなかった。 (オレを置いていかないで……!) 「|京介《きょうすけ》……」  |智《さとる》は、その名前をくりかえし|呟《つぶや》きつづけた。たった一つの救いの|呪《じゅ》|文《もん》のように。 (お願いです……神さま。  この人をオレから奪わないでください。  奪わないで……ください!) 「|嫌《いや》だ……京介……」 「さとる……」  京介の腕が、骨も折れよとばかりに、強く智を抱きしめる。  智は、ギュッと目を閉じた。  このまま朝が来なければいい。  このまま時が止まってしまえばいい。 「京介……京介……」  この瞬間に、世界が滅びるとしたら——なんと幸福な|終焉《しゅうえん》。  なんと|壮《そう》|麗《れい》な最終舞台。 (お願いです、神さま……どうか……。  この人を……奪わないで。  オレに残されたたった一つの|陽《ひ》だまり……隠れ場所……。  この人だけは奪わないで……。  お願いです……)  だが、どんなに泣いたとしても、悲しんだとしても、今は終わりの時ではないらしい。 「さとる……俺は東京へは帰らないぞ」  さっき、|智《さとる》が言おうとして言えなかった言葉を読みとったように、|京介《きょうすけ》が|呟《つぶや》く。  両腕は、智の震える背に、しっかりとまわされている。  青い月の光が、ベッドの|枕《まくら》もとに|射《さ》しこんできた。  夜もだいぶ|更《ふ》け、国道を走る車の音も絶えた。  かすかに、波の音だけが聞こえてくる。  ひどく静かだった。 「俺は、東京へは帰らない」 「京介……でも」  このままでは、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を使うことになってしまう。 「天之尾羽張は、使わない。だから、俺は戦力としては、あんまり役にたたねーけど……」 「帰らないの……本当に?」 「おまえをほうっていけねえよ。おまえは……バカだって笑うかもしれねーけど……」  どうして、京介を笑うなんてことができるだろう。  京介は、こんなに誠実で、こんなに強くて、優しいのに。 「帰れねーよ。おまえを残して……!」  京介の声が、聞き取れないほど小さくなる。 「そんなこと、できるわけねーよな……」 「じゃあ、約束して。絶対に、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》は使わないって。|誓《ちか》って」  智は、京介の肩に顔を|埋《うず》めたまま、言う。  顔をあげて、京介を見れば、また何も言えなくなってしまう。 「|大丈夫《だいじょうぶ》だ。俺だって、そんなにバカじゃないさ」 「誓って、京介。でないと、オレ、|怖《こわ》くて……」 「俺だって、怖いさ」  智を抱きしめる京介の腕が、ブルッと震える。 「いきなりあんなこと言われて……|冗談《じょうだん》じゃねーよな。このままだと、あと二か月の命だなんてさ……。天之尾羽張の影響で、一日で一年|歳《とし》とるんなら、あと一か月で、俺、五十近いオヤジだぜ。んな話、信じられるわけねーってば」 「やめよう……そんな計算」  天之尾羽張は使わない、と言いながらも、|京介《きょうすけ》は、使った場合を必死で考えているらしい。  |智《さとる》の胸が、|切《せつ》なく痛む。 「一緒に|歳《とし》をとっていこう、京介」 「あ、当ったり前じゃねーか。|都《と》バスの老人パスをもらう時は、一緒だぞ」 「うん」 「|誓《ちか》うよ、さとる。絶対に天之尾羽張は使わない」  京介は、苦しげに|呟《つぶや》いた。 「死んだら終わりだもんな……おまえとも会えなくなっちまう……」  |喉《のど》の奥から絞り出すような|口調《くちょう》。  智は、顔をあげた。月明かりが、京介の男性的な横顔を照らしだしている。  智を見つめる|相《あい》|棒《ぼう》の|頬《ほお》は、死にゆく者のように|蒼《そう》|白《はく》だった。 「さとる……こんなことくらいで変わるなよ。心閉ざしたり、冷たくなったり、俺を無視したりすんなよ。俺を嫌いになったふりして、一人で遠くへ行くんじゃねーぞ」 「京介……」 「たかが、こんなことじゃないか。俺たちの|絆《きずな》は、そんなに|脆《もろ》いもんか。そうだろ」  ささやく声は、|苦渋《くじゅう》に満ちていた。 「俺から離れていくなよ、さとる」 「京介」  |嵐《あらし》に|翻《ほん》|弄《ろう》されているのは、今度は京介のほうだった。  きっと|唇《くちびる》を結び、胸のなかの激情に耐えている。  智には、それが手に取るようにわかった。  智の部屋の人声にかこつけて、京介がドアを|叩《たた》いた理由は——。 (たぶん……オレがドアを開いたのと同じ理由だ)  京介も|慰《なぐさ》めを必要としていた。  そして、智の手を求めてきてくれた。 (オレを必要として……来てくれた)  智は、泣きだしたいような、叫びだしたいような気持ちにかられた。 (神様……!)  |怖《こわ》くて、不安で、震えているけれど——。  それでも、こんなに幸せだ。  今、この瞬間の|想《おも》いは一つだから。 「そばにいるから……京介。絶対離れない」 「約束だぞ……」 「うん」 「俺も約束する……さとる」  まぢかにある|京介《きょうすけ》の|瞳《ひとみ》に|嘘《うそ》はない。  |智《さとる》は、ようやく安心した。      *    *  翌朝は、快晴だった。  朝日に照らされたベッドから手が出て、ベッドサイドを|探《さぐ》る。 「ん……?」  何か変だと思ったのか、手は激しく動きまわるが、手の|主《ぬし》はシーツにくるまったまま、出てこない。 「何やっとんねん」  入り口でそれを|眺《なが》めていた|勝《かつ》|利《とし》が、|呆《あき》れたようにチョコレートを口にほうりこむ。  すでに、短パンとケン・ドーンのコアラのTシャツに着替えている。 「CD……ない……?」  ボソボソと智の声が、シーツの下から聞こえてきた。 「CD? ここやで」  勝利は、|床《ゆか》に置いてあったCDラジカセを、智の手もとまで持っていってやる。  もちろん、親切なわけではなく、|好《こう》|奇《き》|心《しん》からである。  智の手は、CDラジカセの演奏ボタンを選んで、器用に押す。 「ん……?」  アップテンポの曲と一緒に、|式神召喚《しきがみしょうかん》の|咒《じゅ》が流れだす。  |睡《すい》|蓮《れん》が出現した。  智と|瓜《うり》|二《ふた》つの少年の姿だ。ブラックジーンズに、黒いノースリーブのシャツ。 「おはようございます、|上主《じょうしゅ》……おや?」  最後の声は、勝利に気づいたからである。  勝利は、|顎《あご》をかいた。 「式神召喚用のCD……思いっきり|邪《じゃ》|道《どう》なことしとんなあ、|鷹《たか》|塔《とう》センセ」  通常、式神を召喚する時は、|呪《じゅ》|符《ふ》を使うのが正式とされる。  智が、うるさそうに寝返りをうつ。 「京介……氷は? 睡蓮でもいいけど……」  ボソボソと|呟《つぶや》く声。まだ寝ぼけているようだ。  その時、ドアが勢いよく開いた。 「さとる!」  |京介《きょうすけ》が、マイセンのサラダボウルを|抱《かか》えて、|意《い》|気《き》|揚《よう》|々《よう》と入ってくる。  サラダボウルのなかには、氷が山盛りに入っていた。製氷皿から出したばかりだ。 「お手伝いさんに頼んで、氷もらってきたぜぇ……おっと、|千客万来《せんきゃくばんらい》じゃんか」  京介は、|面《おも》|映《は》ゆそうに|勝《かつ》|利《とし》の顔を見、ニヤッと笑った。  勝利は意外そうに|眉《まゆ》をよせる。 (こいつ……すっかりふっきれた顔しよって……)  京介は、サラダボウルを|睡《すい》|蓮《れん》にポンと渡し、|智《さとる》に歩みよる。 「こぉら、起きろよ、さとる」 「ん……京介……」  シーツの|陰《かげ》で、智が小さく何か言う。  京介は、微笑した。  素早く身を|屈《かが》めて、|唇《くちびる》を重ねる。  バスッ……!  |羽枕《はねまくら》が宙を飛んだ。  京介が軽く頭をよけると、枕は、その後ろの勝利に激突する。 「……メシやで」  勝利は、顔面にぶつかった枕を|床《ゆか》にほうり投げた。  智と京介を|眺《なが》める目が、|不《ぶ》|気《き》|味《み》なものを見る目つきになっている。 「あんたら……かなり変やで。男同士やろ」  その|呟《つぶや》きは、見事に無視される。  智は、ようやく起きあがって、|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》な顔で京介を|睨《にら》んでいた。  |紺《こん》のパジャマ姿だ。  京介は、声を殺して笑っている。  こちらは、中古のジーンズに、ミントグリーンのポロシャツ。ポロシャツは、フレッドペリーの新色だ。 「メシできたで」  勝利は、もう一度言う。  やはり、無視される。 「メシだってゆうてんや、おめーら!」  |怒《ど》|鳴《な》ると、ようやく智がこちらを見た。 「ご飯の中身は?」 「おはようさん、|鷹《たか》|塔《とう》センセ」  勝利は、|皮《ひ》|肉《にく》たっぷりに言う。が、智は、|執《しつ》|拗《よう》に同じことを尋ねる。 「ご飯の中身、教えてくださいよ」 「|鮎《あゆ》の塩焼きと、カツオの|刺《さし》|身《み》と、トウフの|味《み》|噌《そ》|汁《しる》や」  |勝《かつ》|利《とし》は、根負けしたようだ。 「ホタテ貝とダイコンのサラダもあったで」 「……じゃ、オレ、いりませんから」  |智《さとる》は、|睡《すい》|蓮《れん》を手招きした。|式《しき》|神《がみ》の持ったサラダボウルから、氷を取って口にほうりこむ。  |傍若無人《ぼうじゃくぶじん》な態度だ。 「いらないっちゅうのは、なんでや」 「朝は、氷だけでいいです」  智の返事は、そっけない。  勝利は、かなりムッとしている。 「なら、|昨日《き の う》のうちに言わんか。|和《かず》|子《こ》さん……うちのお手伝いさん、五時に起きよって、あんたらの朝食、一生懸命作ったんやで」 「悪い、勝利君、ごめんな。こいつ、すっげえ|偏食《へんしょく》なんだ。朝一番は氷しか食わねーし、氷食ったあとは、熱いカフェオレ用意してやんねーと|機《き》|嫌《げん》悪くなるし、刺身は、新鮮な貝類じゃないと見向きもしねーんだよ」  |京介《きょうすけ》が、|慌《あわ》ててフォローに入る。 「ナルミちゃん、悪いけど、それは偏食とは言わん」 「そ、そうかな……」 「まさかと思うんやけど、ナルミちゃん、|鷹《たか》|塔《とう》センセの|面《めん》|倒《どう》ぜんぶみてやってるん?」 「そうだよ。|掃《そう》|除《じ》、|洗《せん》|濯《たく》、|炊《すい》|事《じ》」  勝利は、はぁ……と大きなため息をついた。  信じられない、という顔だ。 「お|人《ひと》|好《よ》しやな」  智は、そっぽをむいて氷をかじっている。  その隣には、真面目な顔でサラダボウルを|捧《ささ》げ持つ睡蓮の姿。  勝利は、智をじっと見る。 「鷹塔センセのぶんの朝メシ、どうするんや。全然いらんのか」 「京介が食べてくれますよ」  智は、氷をたいらげながら、ニッコリ微笑する。 「ね、京介」 「ああ」  京介も、幸せそうな|笑《え》みをかえす。  勝利は、|怪《け》|訝《げん》そうな顔になった。 (なんや、こいつら……?)  |智《さとる》と|京介《きょうすけ》は、|勝《かつ》|利《とし》のことなど眼中にないように見える。 「あんたら、異様に仲よしさんやなあ、|今朝《け さ》は。……ひょっとして、|昨日《き の う》の晩、二人で何かイケナイことでもしたんかぁ? 新婚ホヤホヤみたいやでぇ……あ、|鷹《たか》|塔《とう》センセの首にキスマークや」  勝利は、ニヤリと笑って、下品な|冗談《じょうだん》をかます。  もちろん、智の首にはそんなものはない。  京介が怒って、智が冷たく無視する、というリアクションを期待したのだが——。  突然、智の手が止まった。指のあいだから氷が落ちた。  |凜《りん》とした美少年は、あきらかに、うろたえている。  指先で首筋を|触《さわ》ろうとして、その手を|慌《あわ》てて|膝《ひざ》の上に戻す。 「変なこと、言わないでください!」 「冗談よせよ! できるわけねーじゃんかよ、んなこと! やめろよ!」  京介も、うわずった声で|怒《ど》|鳴《な》る。  耳が赤くなっていた。  智と京介は、互いに目をあわせないでいる。  京介の耳が、どんどん赤くなっていく。  不自然な沈黙。  勝利は、見てはいけないものを見たような気がした。 「一瞬でも、あんたらのこと、心配したわいがアホやった。……一生やってな」  言い捨てるなり、足音も荒く、ドアのほうへ歩きだす。  見送って、智と京介は、そっと顔を見あわせた。  どちらからともなく、照れたように笑いだす。 「勝利君、オレたちのこと、心配して来てくれたんだ」 「けっこういい|奴《やつ》じゃーん」 「ねえ」  緊張をまぎらわすように、二人して爆笑する。  ドアのあたりから、勝利の怒った声が聞こえてきた。 「はよせんと、朝メシなくなるで」      *    *  同じ頃。  デスクの電話が鳴りだした。  |鎌《かま》|倉《くら》市内にある|愛《あい》|川《かわ》|美《み》|佐《さ》|子《こ》事務所である。  ワンコールで、男の手がそれを取る。 「はい、愛川美佐子事務所です……」  電話を取ったのは、|宮《みや》|沢《ざわ》秘書だ。相手の言葉を聞くなり、さっと顔色を変える。 「また|犠《ぎ》|牲《せい》|者《しゃ》が……そうですか。|二十歳《は た ち》くらいの女性……あ、さようで。では、|鷹《たか》|塔《とう》先生にご連絡して、私も急行します……はい、よろしくお願いいたします」  お茶を出しにきた若い女性職員が、不安げな目で宮沢を見る。  ショートカットの小柄な美女だ。  白いタイトスカートがよく似合っている。 「また、死人ですか」  受話器を置くと、宮沢秘書は女性職員を振りかえった。 「まだ死んでいない。影をなくしているだけだ。身元不明の女性らしい」 「でも、影をなくしたら、三日くらいで|衰弱死《すいじゃくし》するんですよね」 「|真《ま》|奈《な》|美《み》|君《くん》、君、くれぐれもそういう話は、外ではしないでくれよ。そうでなくても、口コミで|噂《うわさ》が広がっているんだ」 「〈|影《かげ》|斬《き》り〉だけじゃなくて、〈いくぢ〉が海で暴れているせいもあるでしょ、宮沢さん」 「〈いくぢ〉……? なんだね、あの|海《うみ》|蛇《へび》のような|妖《よう》|怪《かい》のことか」  宮沢秘書は、ふと、何かおかしい、と言いたげな顔になった。  かつて|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》として、死戦をくぐりぬけてきた者の|勘《かん》が告げている。 (|殺《さっ》|気《き》がある……)  目の前の小柄な美女が、|妖《よう》|艶《えん》な|笑《え》みを浮かべた。  朝のオフィスにはふさわしからぬ、|扇情的《せんじょうてき》な表情。 「真奈美君……どうした?」 「〈いくぢ〉は、おとなしい妖怪なのよ。でも、人の影を食わせると、その味に酔うのよ。酔って、狂って、もっと人の影が欲しくなって、術者の言いなりになってしまうの。まるで|麻薬中毒《まやくちゅうどく》みたいね。おかしいでしょ」  真奈美は、けたたましい声で笑いだす。  周囲の職員たちが、何事かと注目した。 (違う……この女……) 「真奈美君……じゃない! |鬼《おに》か!?」  宮沢秘書は、反射的に身構えた。  同時に、すさまじい|妖《よう》|気《き》が宮沢秘書を襲った。 「う……っ!」 「鷹塔|智《さとる》を呼びよせてくれた以上、おまえにもう用はない。死ね」  |真《ま》|奈《な》|美《み》の姿を借りた|鬼《おに》は、勢いよく腕を振りあげた。  黒い|霊《れい》|気《き》が、鬼の手のなかで|凝縮《ぎょうしゅく》した。|太刀《たち》の形になる。 「〈|影《かげ》|斬《き》り〉……!」 「|宮沢遼司《みやざわりょうじ》、わが|主《あるじ》のために、おまえの影と|呪《じゅ》|殺《さつ》能力をもらいうける!」  黒い|刃《やいば》が宙を斬る。 「ナウマク・サマンダ・ボダナン・ソラソバ・テイエイ・ソワカ!」  とっさに、|鋭《するど》い|真《しん》|言《ごん》が宮沢秘書の口からもれる。  が、効果はない。 (ち……やはり、もう|霊力《れいりょく》はないか……!) 「何やってるんだ、真奈美さん! 宮沢さん!」 「どうした!?」  異常を感じて、駆けよってくるほかの職員たち。  その|隙《すき》に、宮沢秘書は|床《ゆか》に転がって、鬼から距離をとる。 (|鷹塔智《たかとうさとる》を呼びよせてくれた、だと……? この一連の事件の目的は、鷹塔先生を|誘《おび》きだすことか。では、私は知らずに道具にされていたのか。  何も知らずに|罠《わな》の一部にされていた……) 「わわっ……ちょっと、真奈美さん!」 「なんだ、なんだ!」  黒い太刀は、近よりすぎた不運な職員の一人を|血《ち》|祭《まつ》りにあげる。 「おまえは|邪《じゃ》|魔《ま》だ! おまえの影はいらん!」 「ぐ……はっ!」  倒れこむ体。鮮血が|天井《てんじょう》まで吹きあがった。  事務所のあちこちから悲鳴が聞こえる。あたふたと逃げだす人々。  宮沢秘書は、素早く姿勢をたてなおした。鬼の前に立ちはだかる。  胸の奥に、燃えるような|怒《いか》りと、使命感があった。 「私の影を奪って、どうする気だ」 「知れたこと。わが主が、おまえの|念《ねん》|縛《ばく》の力を必要とされているのよ。もはや|封《ふう》|印《いん》した力ならば、おまえには不要! 影ごとよこせ!」 「力ずくで|盗《と》ってみろ」  宮沢秘書は、胸の前で|印《いん》を結んだ。 (JOAで封印された霊力……解放できるか)  解放できないことはない。  だが、無理やり封印を|解《と》けば、間違いなく死ぬ。  霊力を使ったが最後だ。  かならず死ぬ。  JOAの|封《ふう》|印《いん》技術にぬかりはないのだ。  一度封印された力を解放し、術を使った瞬間、術者の心臓に|過《か》|負《ふ》|荷《か》がかかるようプログラミングしてある。  術を使う緊張と興奮に耐えきれず、心臓は停止する、というわけだ。  無数といっていい|心《しん》|霊《れい》犯罪者を扱ってきた組織の、|酷《こく》|薄《はく》な知恵であった。  |逡巡《しゅんじゅん》は一瞬。  |宮《みや》|沢《ざわ》秘書は、胸のなかに|懐《なつ》かしい|面《おも》|影《かげ》を思い浮かべた。  人を殺せる霊力を持って生まれて、苦しみつづけた十代から二十代後半に、めぐりあった優しい女性。  |百《ゆ》|合《り》|子《こ》。  何度も悲しませて、何度も離婚と再婚をくりかえして——。  それでも、最後に帰っていくのは、彼女のところなのだ。  ようやく、また一緒に暮らしはじめて、今度こそ幸せにしてやろうと決めた。 「すまない、百合子……|勝《かつ》|利《とし》……」  いとしい妻と、|息《むす》|子《こ》の名前を|呟《つぶや》く。 (やるしかないんだ。ここで霊力を使うしか。  許せよ……)  宮沢は、かつて一度だけ、敬愛する主人のために、|無償《むしょう》で|呪《じゅ》|殺《さつ》の力を使ったことがある。  |西《にし》|崎《ざき》|政《まさ》|巳《み》代議士。  地元出身の若き|獅《し》|子《し》。  |稀《まれ》にみる指導力とカリスマ性を持ちながら、|支《し》|持《じ》|基《き》|盤《ばん》の弱さにたたられ、|不《ふ》|遇《ぐう》をかこった|美丈夫《びじょうふ》である。  宮沢が呪殺した相手は、当時の西崎代議士の対立候補。  選挙戦の|序《じょ》|盤《ばん》から、圧倒的な強さを見せつけていた|老《ろう》|練《れん》な政治家、|楢《なら》|山《やま》|秋《あき》|吉《よし》だった。  楢山の急死により、選挙は西崎の逆転大勝利に終わった。  その勝利が、西崎に運を運んできた。  裏でどう工作したものか、楢山の支持基盤をそっくり手に入れ、|派《は》|閥《ばつ》の上層部と|縁《えん》|戚《せき》関係を結び、若手議員のトップへと駆けあがる。  現在、西崎代議士は、|盤石《ばんじゃく》の態勢で、十五年後の政権を|狙《ねら》っている。  その|傍《かたわ》らには、五年前まで、いつも宮沢の姿があった。  有能なボディーガード兼秘書の姿が。  宮沢は、西崎代議士の資質と政策を誰よりも理解し、支持しつづけた。 (西崎先生、あなたなら……この国を変えられるかもしれない。  開発によって乱れていくこの国を、救えるかもしれない。  信じたんですよ、|西《にし》|崎《ざき》先生……この私が本気で)  だが、破局は訪れた。  |宮《みや》|沢《ざわ》がJOAによって|霊力《れいりょく》を|封《ふう》|印《いん》されたことを知ると、西崎は手のひらをかえした。  西崎は、宮沢の|呪《じゅ》|殺《さつ》能力を恐れる必要がなくなったのだ。  おりしも、マドンナ議員ブーム。  ——二年の約束で、|愛《あい》|川《かわ》|美《み》|佐《さ》|子《こ》についてくれないか、宮沢君。二年たったら呼び戻す。  守られなかった約束。  最初から、西崎代議士は、宮沢を切り捨てるつもりだった。  十数年の|主従《しゅじゅう》の|蜜《みつ》|月《げつ》は、すべて|嘘《うそ》だったのだ。  ただ、宮沢の呪殺能力を恐れて——|偽《いつわ》りの信頼でなだめすかして。  あの約束から、すでに四年が経過している。 (あなたのために、人まで殺した私に、この仕打ちですか、西崎先生。  私に霊力が残っていたら……西崎先生、あなたを呪殺していました)  それでも——。  この夏に入って、西崎代議士から|江《え》ノ|島《しま》|洞《どう》|窟《くつ》の異変を解決するようにと、|依《い》|頼《らい》を受けたとき、宮沢の心は|躍《おど》ったのだ。  久しぶりに耳にする西崎の声は、ハッとするほど力強かった。  ——愛川美佐子の名前で、|陰陽師《おんみょうじ》を|雇《やと》いたまえ。愛川君には、私から話しておく。|首《しゅ》|尾《び》よく成功したら……君の席を用意して待っていよう。  ——陰陽師は……そうだな、|鷹塔智《たかとうさとる》がよかろう。金は心配するな。いくらでも用意しておこう。  |我《われ》を忘れて、|有頂天《うちょうてん》になった、あの時の自分。  宮沢秘書は、|苦《にが》|々《にが》しく思い出した。  何もかも、嘘だったというのに。 (最後まで信頼を裏切るおつもりですか、西崎先生)  いかなる経路をたどったのかは、わからない。  だが、西崎もまた、この|茶《ちゃ》|番《ばん》に一枚|噛《か》んでいるのは確かだ。  これは、|罠《わな》だ。  鷹塔智を|誘《おび》きだすための、ひどく手のこんだ罠。  そのために、一度捨てた宮沢を、犬のようにもう一度呼び戻そうとした。 (許さない……)  胸の奥に、どす黒い|憤《いきどお》りが広がっていく。 (西崎|政《まさ》|巳《み》も、この|鬼《おに》も、鬼の|主《あるじ》も……。  私の誇りにかけて。  |誅伐《ちゅうばつ》する……私の命にかえても)  美女の姿をした|鬼《おに》が、黒い|太刀《たち》を握って、にじりよってくる。 (|鷹《たか》|塔《とう》先生……どうか故郷の海と島を……)  一瞬、|宮《みや》|沢《ざわ》秘書の目は、遠い空にむけられた。  ガラスごしに広がる青い空間。  |憧《あこが》れつづけたものすべての|象徴《しょうちょう》のような、|無窮《むきゅう》の青。  胸の奥で、パチン……と|泡《あわ》のようなものが|弾《はじ》けた。  |封《ふう》|印《いん》が破れた。  血の|臭《にお》いがする。 (海と島を……お守りください……)  宮沢秘書は、まっすぐ鬼を見据えた。|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》と恐怖は感じなかった。  ただ、少しだけ悲しい気持ちがする。  |外《げ》|縛《ばく》|印《いん》を結ぶ。 「ナウマク・サマンダ・ボダナン・ソラソバ・テイエイ・ソワカ!」  強い|霊《れい》|気《き》が放出される。  鬼は、|怯《ひる》んだように、二、三歩、後ずさった。  宮沢秘書は、薄く笑った。  その手には、いつの|間《ま》にか数枚の|呪《じゅ》|符《ふ》があった。 「禁!」  |呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》の|鋭《するど》い叫び。  鬼にむかって、呪符が飛んだ。呪符は、黄色の光を流星のように引いている。 「きゃああああああーっ!」  鬼は恐怖に狂ったようになって、走りだした。  まっすぐ、宮沢秘書にむかって太刀を振りおろす。  ブシュッ!  ビジュッ……!  |嫌《いや》な音と一緒に、事務室の|天井《てんじょう》に鮮血が飛び散った。     第四章 |江《え》ノ|島《しま》へ  一方、こちらは、まだ平和な|宮《みや》|沢《ざわ》|邸《てい》である。  朝の光が、フローリングの|床《ゆか》に|縞《しま》模様の影を落とす。  ダイニングキッチンにいるのは、三人。  |智《さとる》は、白いテーブルセンターに|肘《ひじ》をついていた。  右手に、熱いカフェオレのマグカップ。  隣では、|京介《きょうすけ》が幸せそうに、智の横顔を見つめている。  智のぶんの朝食もたいらげたあとである。  |勝《かつ》|利《とし》は、「けっ」と言いたげな顔だ。 「さとる、それ飲んだら、江ノ島の問題の|洞《どう》|窟《くつ》へ行ってみよう」 「ん……」  満足しきったシベリアンハスキーのように、智は|生《なま》|返《へん》|事《じ》をかえす。 「江ノ島って、神社が三つあるんだってな。ついでに、お参りもしてこようぜ。あと、それから、江ノ島名物の|栗《くり》入りマンジュウ買って、|銭《ぜに》|洗《あら》い|白龍王《はくりゅうおう》で銭洗って……」  京介は、ゴソゴソと観光案内を取り出す。 「観光に来たんか、おまえら」  |皮《ひ》|肉《にく》たっぷりに勝利が尋ねる。  智が、横目で勝利を|眺《なが》めた。 「京介は、観光でもいいんですよ。|退《たい》|魔《ま》はオレが引き受けますからね」 (京介には、|負《ふ》|担《たん》はかけない。  京介が、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を使うことがないように……)  智の必死の気持ちが伝わったのか、京介は少しつらそうな顔をする。  智と京介の|眼《まな》|差《ざ》しが、からみあう。  |切《せつ》ない。 「いい|覚《かく》|悟《ご》や」  勝利は、自分のぶんのコーヒーカップを、流し台に持っていく。  その場の微妙な空気に気づいた様子はない。  不良少年が背をむけた|隙《すき》に、智と京介は、どちらからともなく顔をよせた。  |唇《くちびる》をあわせる。  |蝶《ちょう》のはばたきのように軽く。 「あんたら、二人で|江《え》ノ|島《しま》行くんか」  こちらに背中を見せたまま、|勝《かつ》|利《とし》が尋ねる。  ギクリとして離れた|智《さとる》と|京介《きょうすけ》は、一瞬、沈黙してしまう。 (見られた……?)  見られるのを気にするくらいなら、最初からやらなければいいのだ。  智と京介の行動を知ってか、知らずか、勝利は言葉を続けた。 「せっかくやから、忠告したるわ。別々に行きぃや」 「今回の事件と、関係あるんですか?」  智が表情を引きしめた。 「何か新しい動きでも?」 「いんや。ただ、言い伝えがあるんよ」  思わせぶりな沈黙。  勝利は、コーヒーカップと一緒に流し台のなかの食器を洗いはじめる。 「言い伝えって……なんだよ」  京介が、興味をひかれたように口を開く。  勝利が|蛇《じゃ》|口《ぐち》をひねる。水の音で、勝利の言葉が智と京介にはよく聞こえない。 「…………」 「え? なんですって?」  水の音が止まった。  勝利は、肩ごしに振りかえってニヤリと笑う。 「江ノ島の|弁《べん》|天《てん》|様《さま》は、女の神様やから、|嫉《しっ》|妬《と》深いんだそうな。そやから、恋人同士で江ノ島行くと、絶対別れることになるそうや。おもろい言い伝えやろ」 「おもろいもんかよ」  京介は、|椅《い》|子《す》に座ったまま、|床《ゆか》にドンと足を投げだした。  平静を|装《よそお》っているが、耳が赤くなっている。  かなり、動揺していた。 「期待して損したぜ」 「つまんない迷信ですね」  智も、肩をすくめた。 「ま、オレたちには関係ないですけどね」 「そうそう」 「|鎌《かま》|倉《くら》の|鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》にも、そういう話、なかったですか、京介」 「そういえば、俺ら、まだ行ってなかったよな」 「今度行きましょうか、京介」 「いいのか、さとる」 「迷信でしょ、だって」 「そうだな」  |智《さとる》と|京介《きょうすけ》は、どこかぎごちなく、明るい会話をかわす。  その時だった。  ガシャーン!  食器の割れる音と、|勝《かつ》|利《とし》の小さな叫び声。 「しもた……!」  智が見ると、粉々になったマグカップが、不良少年の足もとに転がっている。 「|親《おや》|父《じ》のマグ、割ってもうた……」  人さし指を吸いながら、しゃがみこむ勝利。  口から一度出したのを見ると、指の腹から真っ赤な血が筋を引いていた。 「|怪《け》|我《が》したのか、おい、勝利君」 「京介、|布《ふ》|巾《きん》か何か、ちょうだい! 早く! 勝利君、ダメだ! |素《す》|手《で》で、かけらに|触《さわ》らないで!」  ポタリ……ポタリ……。  熱い血が、フローリングの|床《ゆか》に|滴《したた》り落ちる。  勝利は、|真《ま》っ|青《さお》な顔で、座りこんでいた。  目の前にあげた左手から、驚くほど大量の血が流れだしている。  血まみれの手首に、オレンジ色のプロミスリング。 「どうした? |貧《ひん》|血《けつ》か? おい、ちょっと!」  京介が、放心している勝利の肩をつかんで、声をかける。  ややあってから、不良少年の|瞳《ひとみ》が京介と智を映した。  勝利の顔が、苦痛に|歪《ゆが》んだ。  |喉《のど》の奥から、絞りだすような声。 「親父が……やられた」 「|宮《みや》|沢《ざわ》さんが?」 「やられたって、どういうことだ、勝利君!?」  ダン!  勝利は、マグのかけらの散らばる床を|殴《なぐ》りつける。  傷ついた手に、|鋭《するど》い破片がめりこむ。  さらに、破片をつかんで、ぐっと握りこむ。 「やめてください! あんたがそんなことやっても、なんの解決にもならない!」  智が、勝利の腕を押さえた。  無理やりこじあけた手のひらは、血まみれだ。  |勝《かつ》|利《とし》は、ふらふらと立ちあがった。 「待って! その傷だけは手当てしないと!」 「やかましい……!」  |智《さとる》を振りはらいかけた勝利は、ふいに思いなおしたようだった。  充血した目が、|京介《きょうすけ》を見あげる。 「心配かけて、すんまへん……わいは、|大丈夫《だいじょうぶ》やから」  傷ついていないほうの手で、智の背中をポンと押す。  さほど力は入れていなかったのに、智の体が|弾《はじ》かれたように前に出た。  京介が腕をひろげると、そのなかに、智がすっぽりおさまる。 「あんたに返すわ」 「何しに行く気だ、勝利君」 「決まっとる。お礼参りや」  |呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》は、薄く笑った。 「相手は、わかってるのか」 「知らん。|江《え》ノ|島《しま》|全《ぜん》|島《とう》、くまなく探したるわ。それでも出てきぃへんかったら、あの|洞《どう》|窟《くつ》、わいがぶっ|潰《つぶ》したる。あんなもんあったから、|親《おや》|父《じ》は……!」  勝利の歯がギリリと鳴った。  今にも暴れだしそうな姿。  智と京介が止めに入ろうとした時。  プルルルルーッ! プルルルルーッ!  |廊《ろう》|下《か》のほうから、電話の呼び出し音が聞こえてきた。  プルルルルーッ! プルルルルーッ! 「はい、|宮《みや》|沢《ざわ》でございます」  優しい女の声が、応答する。  宮沢|百《ゆ》|合《り》|子《こ》。勝利の母である。  数秒遅れて、絹を|裂《さ》くような|鋭《するど》い悲鳴があがった。 「そんな……! うちの人が……!?」  勝利が、弾かれたようにダイニングキッチンを飛びだしていった。 「おふくろ!」  智と京介は顔を見あわせ、素早く、勝利のあとを追った。      *    *  東京|港区《みなとく》のJOAビルの一室——。 「たっちゃん、|鳴海京介《なるみきょうすけ》の|霊《れい》|気《き》を調べてちょうだい。至急よ」  |緋《ひ》|奈《な》|子《こ》が、年上の|従兄《い と こ》に命じる。  たっちゃんと呼ばれた青年は、長い薄茶の髪、ハシバミ色の|瞳《ひとみ》。白衣を着て、銀ブチ|眼鏡《め が ね》をかけている。  アーサー・セオドア・レイヴン。  日米のハーフで、日本名を|時《とき》|田《た》|忠《ただ》|弘《ひろ》という。  一見、ボーッとしているが、中身はただ者ではない。  JOA心霊治療センターを代表する|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》。  時田忠弘の手にかかれば、|末《まっ》|期《き》|癌《がん》の|患《かん》|者《じゃ》も、翌日には起きて走りだすという。  霊力は折り紙つきだ。  また、この心霊治療師は、コンピューター並みの正確な|記憶力《きおくりょく》を誇っている。  というのは、実は、時田忠弘が、ひどく珍しいハンデを背負っているからだ。一度体験したことは絶対に忘れない、いや、忘れられない、という記憶の障害。  この能力のため、時田忠弘は、高校、大学へは進まなかった。  教科書を一度読めば覚えてしまうのに、学校へ通う必要があるだろうか。 「鳴海京介の霊気?」  |心霊治療師《サイキック・ヒーラー》は、首をかしげた。 「そうよ。|鳴海京介《なるみきょうすけ》が、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を使える理由を知りたいの。|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》といえども、|剣《つるぎ》の|神《しん》|霊《れい》がなくなっている状態で、実体化させることなんかできるわけがない」  |緋《ひ》|奈《な》|子《こ》は、よく晴れた窓の外をじっと見つめた。  室内は空調が|効《き》いて、涼しいくらいだが、一歩外に出ると、三十度をこえる猛暑だ。  |魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》の横顔は、どこか|苛《いら》|立《だ》たしげだった。 「鳴海京介の家系については、調査させたけれど、ここ二百年くらいは、特に強い能力者は出していないわ。本人にも、そんなに強い霊気はないし。何かがおかしいの。変なのよ。たぶん、どこかに理由があるはずだわ」  緋奈子は、長い|漆《しっ》|黒《こく》の髪をもてあそびながら、|従兄《い と こ》に視線をむけた。  深い|闇《やみ》の|瞳《ひとみ》。 「鳴海京介に、あの降魔の利剣が使える理由は、一つだけだぞ、緋奈子」  |時《とき》|田《た》|忠《ただ》|弘《ひろ》は、緋奈子の隣に来て、窓の遠くをじっと見つめた。  どこまでも晴れわたった青空。  広告用の飛行船が飛んでいくのが見えた。  白地に赤で、有名なタバコ会社のロゴが|描《か》いてある。 「鳴海京介は、失われた天之尾羽張の剣の神霊だ。神霊の|化《け》|身《しん》……といったほうがいいかもしれんが」 「剣の神霊の化身……ですって?」  緋奈子が、おうむ返しに|訊《き》く。  信じられないといった顔だ。 「そうだ。天之尾羽張の剣の神霊は、百年以上昔に、天之尾羽張のなかから消えた。そして、突然、鳴海京介のなかに姿を現した。神霊を失った本体の剣、天之尾羽張は弱まった。|邪《じゃ》|神《しん》・|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》を|封《ふう》|印《いん》しつづけて疲労し、外部からの力に耐えきれず、|砕《くだ》け散った。……このへんの経緯は、おまえのほうがくわしいだろう、緋奈子」  この国最強の邪神・火之迦具土の封印を|解《と》いたのは、緋奈子である。  緋奈子は、十二歳の時、実の父に|犯《おか》されかけた。  時田一門の管理する、九州のとある|社《やしろ》——火之迦具土の封印の地で。  緋奈子は、父への|憎《ぞう》|悪《お》のあまり、禁断の封印に手をかけた。  悲鳴と|轟《ごう》|音《おん》。  そして、火之迦具土は緋奈子に|憑依《ひょうい》し、父を殺した。  以来、緋奈子はこの国の闇を支配する魔の盟主となったのである。  邪神に憑依されて。  現在、鳴海京介がふるっている天之尾羽張は、火之迦具土の封印の|要《かなめ》だった。  神も|魔《ま》も切り|裂《さ》く|剣《つるぎ》。  イザナギの剣。  だが、|邪《じゃ》|神《しん》の解放によって、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》は|砕《くだ》け、|社《やしろ》は|炎上《えんじょう》した。  |鷹塔智《たかとうさとる》が、この春に社を訪れて、すべてを知るまで——。  天之尾羽張の破片は、青草のなかに|埋《う》もれていた。  だが、すべてを知った天才|陰陽師《おんみょうじ》・鷹塔智は、今は|記《き》|憶《おく》を失っている。  秘密は|封《ふう》|印《いん》されたままだ。  かつて、|幼《おさな》なじみだった|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》と智は、今は、敵対している。  |闇《やみ》を支配する魔の|盟《めい》|主《しゅ》と、|光明《こうみょう》を|掲《かか》げて|邪《じゃ》を|祓《はら》う天才陰陽師として。  緋奈子の意志でも、智の意志でもなく。 「|鳴海京介《なるみきょうすけ》の外見も|霊《れい》|気《き》も、普通の人間のものと区別がつかん。ということは、剣の神霊が、なんらかの手段で人間の肉体をもってから、数代以上は|転《てん》|生《せい》をくりかえしているということになる。それ以外に、あの男に天之尾羽張を使える理由は考えられん」  |時《とき》|田《た》|忠《ただ》|弘《ひろ》は、|呟《つぶや》いた。 「数代以上の転生……?」 「たぶんな」 「じゃあ、鳴海京介が剣の神霊の|化《け》|身《しん》だとしたら、天之尾羽張を使った時、どんな影響があるの。緋奈子にとっては、それがいちばん問題だわ」  緋奈子の|瞳《ひとみ》が、一瞬、冷たく光る。  |冷《れい》|酷《こく》な魔の盟主の顔。  時田忠弘は、|従妹《い と こ》の気持ちの変化に気づいたようだった。  こちらも、表情を引きしめる。 「通常なら、天之尾羽張の影響を受けると、老化と|衰弱《すいじゃく》が急激に進むことになる。だが、鳴海京介の場合は、少し違う。剣の神霊である|魂《たましい》と、人間の肉体が引き|裂《さ》かれ、魂は天之尾羽張のなかへ吸いこまれる」  緋奈子が、ゾッとするような声で笑いだした。 「天之尾羽張の復活というわけね。それで、鳴海京介の肉体は?」 「おそらく、一匹の|妖獣《ようじゅう》に変わる。魂をなくした者は、人間ではいられないからな」  時田忠弘は、静かに言った。 「変化は、ゆっくりと始まるだろう。最初は、記憶が欠落する。記憶のないあいだ、鳴海京介は妖獣として|街《まち》をさまよい、人を殺して歩くことになる。血をすすり、闇の|眷《けん》|属《ぞく》と交わり、昼の光を|憎《にく》み……やがて、その変化は|間《かん》|断《だん》なく襲ってくるようになり、最後に固定する。そして、天之尾羽張は、|徐《じょ》|々《じょ》に金属の剣として実体化しはじめるだろう」 「天之尾羽張が実体化……?」 「そのとおり。|神《しん》|霊《れい》と合体した|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》は、いちばん初めの形態である金属の|剣《つるぎ》に戻る。その形態の天之尾羽張を使えるのは、|鷹塔智《たかとうさとる》ただ一人。智は、|邪《じゃ》|神《しん》・|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》を|斬《き》るために、天之尾羽張を使うだろう。当然、おまえも無事ではすまないよ、|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》」  ピシ……ッ!  音をたてて、窓ガラスに|亀《き》|裂《れつ》が走った。  緋奈子の長い髪が、|蛇《へび》のようにうねりはじめる。  フレアースカートが、風もないのにはたはたと|翻《ひるがえ》った。  緋奈子の全身から放出される霊気の影響だ。 「やれるものなら、やってみるがいいわ、智ちゃん」  緋奈子の|漆《しっ》|黒《こく》の|瞳《ひとみ》に、強い光が宿る。  |陶《とう》|然《ぜん》とした|魔性《ましょう》の|笑《え》|顔《がお》。 「この緋奈子を殺せるものなら……!」  だが、その挑戦に|応《こた》えるべき|傲《ごう》|慢《まん》な瞳の鷹塔智は、今はいない。  天才|陰陽師《おんみょうじ》は、眠りつづけている。  |記《き》|憶《おく》をなくした鷹塔智のなかで。      *    *  智と|京介《きょうすけ》は、白い|廊《ろう》|下《か》に立っていた。  すぐ後ろの病室からは、女の低い|啜《すす》り泣きが聞こえてくる。  病室のドアの上には、ネームプレートがかかっていた。 〈|宮沢遼司《みやざわりょうじ》〉と書いてある。  事務所から、すぐにここに運ばれた宮沢秘書が、死に神と戦っていた。  病室のなかには、夫人の|百《ゆ》|合《り》|子《こ》と、|勝《かつ》|利《とし》がいる。  勝利たちと駆けつけた智と京介は、親族のみ、という医者の言葉に|阻《はば》まれて、病室内には入れない。  すでに、十五分が経過していた。  |看《かん》|護《ご》|婦《ふ》たちが用もないのにそばを通っては、チラリと智を盗み見る。  智は、ホワイトジーンズに、白いコットンシャツという白ずくめ。  そのうえ、|凜《りん》とした瞳の美少年だ。  注目するなというほうが、おかしいだろう。  京介の手には、黒いCDラジカセ。なかには|式神召喚用《しきがみしょうかんよう》のディスクが入っている。音量はギリギリまで|絞《しぼ》ってあった。  カツカツカツ……。  |靴《くつ》|音《おと》をたてて、一人の美少女が|智《さとる》と|京介《きょうすけ》に歩みよってきた。  智とよく似た|美《び》|貌《ぼう》、長い黒髪——。  こちらは、智と対照的に黒ずくめだ。  胸もとがきわどく開いたアンサンブルで、スカート|丈《たけ》は|膝《ひざ》|上《うえ》二十センチほど。  外人のようにまっすぐ伸びた足には、やはり黒のハイヒール。  白い首には、大ぶりのゴールドのネックレスが光っている。  どこか|退《たい》|廃《はい》|的《てき》で、|翳《かげ》りを帯びた美少女だ。  白ずくめの智の隣に立つと、とにかく目立つ。 「お待たせいたしました。海の|妖《よう》|怪《かい》と、|赤《あか》|沼《ぬま》|英《えい》|司《じ》に関する資料が出そろいました」  ささやく美少女の声は、|綺《き》|麗《れい》に|透《す》きとおっている。 「ご苦労」  智は、小さくうなずいた。 「え……ええっ!?」  京介は、場所がらも考えず、つい大声を出してしまう。 「何っ……おまえ、この子と知り合いなわけ?」  ハッと気づき、声のトーンを落とすが、京介の両手は、すでに智の肩をしっかりとつかんでいる。 「いつの|間《ま》に知り合ったんだよ、こんな美少女……おい、さとる……」  智は、うっとうしそうに、京介の手を振りはらった。  |凜《りん》とした|瞳《ひとみ》には、|呆《あき》れたような光がある。 (|鈍《にぶ》いよ、京介……) 「よくご覧ください、京介様」  美少女が、|妖《よう》|艶《えん》に|微《ほほ》|笑《え》んで、京介に顔を近づける。  カッと京介の|頬《ほお》が赤くなった。  こんな美少女に、こんなに接近されるのは、|情《なさ》けないが、生まれて初めてだ。 「あ……あのっ……その……俺っ……」 「京介様、|睡《すい》|蓮《れん》でございます」 「へっ……睡蓮……?」  睡蓮は、智の使う四体の|式《しき》|神《がみ》のうちの一体だ。  だが、睡蓮は、智と|瓜《うり》|二《ふた》つの少年の姿ではなかったか。 「|上主《じょうしゅ》の式神は高性能ですので、女性型も選択できるのです」  京介の疑問を読みとったように、睡蓮が甘くささやく。 「もちろん、式神に性別はありません。外見だけのものです」 「そ、そうなんだ……」  |式《しき》|神《がみ》とわかっていても、|睡《すい》|蓮《れん》の微笑に、|京介《きょうすけ》はドギマギしてしまう。 (俺、この手の顔には弱いのかも……)  |智《さとる》は、心なしか|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》だ。 「で、睡蓮、話を聞かせてもらおうか」 「は……|上主《じょうしゅ》」  睡蓮が、智とよく似た美しい顔を引きしめる。  その時だった。  病室のドアがそっと開いた。  |憔悴《しょうすい》したような|宮《みや》|沢《ざわ》|勝《かつ》|利《とし》が立っている。  左手には、痛々しく包帯が巻かれていた。 「勝利君……」  京介が走りよる。 「|大丈夫《だいじょうぶ》か、お父さん?」 「予断を許さん状況や」  勝利は、足早に歩きはじめた。 「|親《おや》|父《じ》をやったんは、|嫌《いや》な|霊《れい》|気《き》の|野《や》|郎《ろう》の送った|呪《じゅ》|殺《さつ》|用《よう》の|鬼《おに》や。事務所、調べさせたら、やっぱり中継器の|傀儡《く ぐ つ》があった。ナメた|真《ま》|似《ね》してくれるわ」  乱暴な足どりで歩きつづける不良少年。  その横顔は、|怒《いか》りに|強《こわ》ばっている。 「どうする気だ、勝利君」 「待ってください」  ただならぬものを感じて、智と京介は勝利を追いかけた。  後ろから、睡蓮がヒールを鳴らしてついてくる。  勝利は、|病棟《びょうとう》をぬけ、エレベーターで一階に降りた。  外来入り口から外に出た。  一歩踏みだすと、|灼熱《しゃくねつ》の|陽《ひ》|射《ざ》しが、アスファルトに照りつけている。  病院の周囲の緑が、熱気のなかで|陽炎《かげろう》のように揺れていた。  ムッとするような熱と湿気。  |蒸《む》し暑い空気が、三人と式神を包みこんだ。  勝利は、そのまま、タクシー乗り場へむかう。  その|間《かん》、ひとことも口をきかない。 「おい、勝利君」  京介が、ようやく勝利に追いついた。肩をつかむ。 「|江《え》ノ|島《しま》へ行くのか?」 「あたりや。敵は、|江《え》ノ|島《しま》や。間違いあらへん。江ノ島の|地《ち》|霊《れい》|気《き》を利用すれば、二流の術者も一流の術が使える。地霊気の影響で、術者の霊力がアップするんや。わいが誰かを|呪《じゅ》|殺《さつ》しよう思うたら、絶対に、江ノ島に陣取るで。それで、ターゲットをあの島へ|誘《さそ》いこむんや」 「待てよ、|勝《かつ》|利《とし》君。江ノ島に入れば術者の霊力レベルがあがるんなら、敵も味方も条件は同じだろ。呪殺者より強い|奴《やつ》が島に入れば、呪殺者が返り|討《う》ちになるんじゃないのか」 「そうや……そうやわ」  勝利は、|智《さとる》と|京介《きょうすけ》の顔を交互に見た。  張りつめていた不良少年の表情が、ふっとやわらぐ。 「それは、気ぃつかへんかった」  ホッとしたような|呟《つぶや》きがもれた。  勝利は、黄色いバンダナを手のひらで押さえる。 「そやけど、それを承知で江ノ島に陣取ったっちゅうことは、敵はよほどの実力者や」 「そのようです。相手は、|赤《あか》|沼《ぬま》|英《えい》|司《じ》。国内でもトップクラスの呪殺者です」  |睡《すい》|蓮《れん》が、珍しく人間たちの会話に口をはさむ。 「睡蓮……」  智は、|式《しき》|神《がみ》の積極的な態度に驚いた。  時々、睡蓮をはじめとする四体の式神たちは、智自身が作ったものとは思えない時がある。 (本当に、感情があるんじゃないだろうか……)  勝利も、目を丸くした。  もっとも、こちらは別の理由らしい。 「なんや……べっぴんな式神やなあ。|鷹《たか》|塔《とう》センセの影みたいな格好より、今の女の子のほうがだんぜんええわ」 「ありがとうございます、勝利様」  睡蓮は、|妖《よう》|艶《えん》に微笑した。 「で、赤沼英司が呪殺者だとしたら……俺たちは、どうしたらいいんだ」  京介がイライラと尋ねた。  勝利の態度が、妙に|癇《かん》にさわる。  睡蓮が、妙に勝利に対して|愛《あい》|想《そ》がいいのも、なんだか腹がたつ。  単に、男の|嫉《しっ》|妬《と》というやつである。 (女と見れば、|見境《みさかい》のない奴だ……)  智が知れば、五十歩百歩だ、と言ったろうが。 「決まってるやんか、ナルミちゃん。敵が呪殺者なら、ぜんぜん遠慮いらん。思いきって、ぶち殺すまでよ」 「殺すのは……ちょっとマズいんじゃないですか」  |智《さとる》が、口をはさむ。 「オレたちは、|退《たい》|魔《ま》しにきたんです。人を殺しにきたわけじゃない」 「甘いで、|鷹《たか》|塔《とう》センセ。殺さんと、殺されるんや。先手必勝や」 「あんた、本気で殺そうって言ってるんですか……信じられない」 「なんやて……わいが|冗談《じょうだん》でゆうてる思うんか」 「相手が|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》でも、人殺しはよくないと思います」 「|勘《かん》|違《ちが》いしなさんな、鷹塔センセ。安っぽいヒューマニズムは、命取りやで」  |勝《かつ》|利《とし》が、薄く笑う。  |軟《なん》|派《ぱ》な不良少年の顔は消え、その下から、厳しい呪殺者の顔が現れた。  智と|京介《きょうすけ》は、その変化にギクリとした。  勝利は、智に手をのばした。  勝利の指が白いコットンシャツの|衿《えり》をつかむ。グイと引きよせ、衿ごと体を持ちあげた。  とっさのことで、智は驚いたようだ。それでも、黙って勝利のするままにさせている。 「何するんだ、勝利君! やめろ!」  京介が止めに入る。  すでに、いつでも|殴《なぐ》りかかれる体勢だ。 「ナルミちゃん、あんたは引っ込んでな」 「やめろ! さとるに何するんだっ!」 「引っ込めゆうとるんがわからんのか、|鳴《なる》|海《み》京介!」  ビン……と空気を震わせて、|鋭《するど》い叫びが飛ぶ。  京介は、瞬間、勝利の|気《き》|迫《はく》に押されて、動きを止めた。  勝利は、|悠《ゆう》|然《ぜん》と智にむきなおった。 「鷹塔センセ、あんた、甘すぎるわ」 「……そうですか」 「そうですか……やない! あんた、何もわかってへんのな。呪殺者ゆうんはな、|依《い》|頼《らい》を受けて人を殺すんや。プロの人殺しなんやで。依頼主の目的が、|江《え》ノ|島《しま》を騒がせるだけなら、呪殺者|雇《やと》うことあらへん。そいつは人の命|狙《ねら》ってるんや。こっちもその気でかからんと、気合い負けしてやられるわ。なんで、そんなことがわからへんのや、アホ!」  勝利は、|威《い》|嚇《かく》するように顔を近づけ、智の目を|睨《にら》みつける。 「それでも……オレは、人は殺せません」 「甘すぎるで。それで、この業界で無事に生きてける思うてるんか」 「できません……オレにはできない!」 「殺すくらいの気でかかれゆうてるんや! さもないとマジで、あんた、気合い負けするで」  |智《さとる》は、反抗的な目で|勝《かつ》|利《とし》を|睨《にら》みかえす。 「簡単に言ってくれますね、勝利君。オレは、|怨霊《おんりょう》になった人間の苦痛、ダイレクトに感じるんですよ。どんなに苦しいか知らないくせに……! その苦痛を知っていればこそ、殺したくないって言ってるんじゃないですか!」 「怨霊になった人間の苦痛やて……?」 「|感《かん》|応《のう》能力っていって、オレの|専《せん》|売《ばい》|特《とっ》|許《きょ》ですよ。|魔《ま》|物《もの》や|妖《よう》|怪《かい》の苦痛もわかるしね。動物の苦痛も、時には生きた人間の感情だってね……! おかげで、オレは肉も魚も食えないんだ!」  智は、勢いよく勝利の手を振り払う。 「|触《さわ》らないでください! このうえ、あんたの感情まで流れこんできたら、やりきれない!」 「|鷹《たか》|塔《とう》センセ……」  勝利は、智の言葉に|衝撃《しょうげき》を受けたようだった。  悪いことを口にさせてしまった……と言いたげな表情だ。  だが、言いだした手前、引っ込みがつかない。 「殺したくあらへんゆーても、敵は殺しにくるんや。そないに甘っちょろいことゆうてたら、命がいくつあっても|足《た》らんわ」  ムスッとした顔で、智に背をむける。 「あんたには、わからない」  悲しげな智の声。  勝利は、うつむいた。  それでも、ごめんとは言わない。  こういう状況のなかでは、なかなか言えないものだ。 「案外、|赤《あか》|沼《ぬま》|英《えい》|司《じ》の|狙《ねら》いは、鷹塔センセの命かもしれんで」  勝利は、|憎《にく》|々《にく》しげに捨て|台詞《ぜ り ふ》を吐き、タクシーをつかまえに行く。  |京介《きょうすけ》は、無言で智の肩を抱きよせた。  |慰《なぐさ》めるのに、ほかの方法を思いつかない。 「京介、暑い……」  智が、うっとうしそうに|呟《つぶや》く。  それでも、京介の腕に|頬《ほお》を押しあて、目を閉じる。  意地っぱりな、感謝の|仕《し》|草《ぐさ》。  拒絶されずにすんで、京介はホッとした。 「こんクソ暑いのに、公衆の面前で、なにイチャついてるんや! タクシーつかまえたで!」  すでに立ちなおった|勝《かつ》|利《とし》が、黄色いタクシーの横で腕を振りあげている。  |智《さとる》と|京介《きょうすけ》は顔を見合わせ、微笑した。  陽光の下、二人して、走りだす。  京介は、わざと全力|疾《しっ》|走《そう》する。つられて、智もスピードをあげた。  二人の胸が並ぶ。  智は、声をあげて笑っていた。  京介が、一歩早く目的地につく。  くるりと振り返って、智を抱きとめる。 「勝ったぁ!」  京介は、満面の|笑《え》みを智と勝利にむける。  勝利は、ふう……とため息をついた。|呆《あき》れたように|顎《あご》をかく。 「根っからお|気《き》|楽《らく》な|奴《やつ》らやな……」  勝利は、「ごめん」と、智に言うべきか迷ったようだが、結局、言わない。  智は、さっさと京介から離れて、タクシーのドアの前で待っている。 「先にどうぞ、勝利君」 「ん……なんや?」  いわくありげな智の微笑に、勝利は少し警戒する。  が、言われるままに後部シートに乗り、奥につめた。  智が次に乗り、京介が隣に入ってくる。|睡《すい》|蓮《れん》は、自分の|召喚用《しょうかんよう》のCDラジカセを|抱《かか》えたまま、前の助手席に座った。 「ラッキー」  智と京介は顔を見あわせ、また微笑する。 「なんや、|不《ぶ》|気《き》|味《み》な……」 「最後に降りた人がタクシー代払うんですよ。ね、京介」 「そういうこと」  二匹のチェシャ|猫《ねこ》のようなニヤニヤ笑い。  勝利は、思わず|拳《こぶし》を握りしめた。  この席順ならば、勝利の降りるのがいちばん最後になる。 「低次元な報復やな……|鷹《たか》|塔《とう》智。|情《なさ》けなくないんか、こんなことして」  だが、返ってきたのは、智と京介の爆笑だけだった。  勝利は、思わず、こいつら|呪《じゅ》|殺《さつ》してやろかと思う。  |賑《にぎ》やかなタクシーは、|江《え》ノ|島《しま》方面めざして走りだした。      *    *  午後から夕方にかけて、空模様が悪くなってきた。  やがて、|大《おお》|粒《つぶ》の雨が、窓ガラスを|叩《たた》きはじめる。 「台風が近づいてるそうだ」  |京介《きょうすけ》が、|智《さとる》の肩に|顎《あご》をのせ、低く|呟《つぶや》いた。  二人して、|床《ゆか》に座りこんでいる。  |宮《みや》|沢《ざわ》|邸《てい》の離れである。  あと三十分ほどで、|江《え》ノ|島《しま》へ出発だ。  |勝《かつ》|利《とし》は、昼間、すぐに江ノ島へ入るのを主張した。  が、相手が影を|盗《と》る手段を持っているとすれば、日中、|陽《ひ》|射《ざ》しの下での戦いは、こちらのほうが|分《ぶ》が悪い。  結局、日没を待って、行動することになった。  智は、京介の胸に背をもたせかけ、ぼんやりと窓の外を|眺《なが》めていた。  今夜は、夜どおしの戦いになるかもしれない。  とりあえず、勝利との簡単な打ち合わせのあと、仮眠をとりに、それぞれの部屋に引き取った智たちであった。  だが、智も京介も寝つけなかった。  結局、京介は、智の部屋のドアを叩いた。 「|麗《れい》|子《こ》さんがいてくれりゃ、もっと|気《き》|楽《らく》だったかもな……」  京介は、この場にいない智の|後《こう》|見《けん》|人《にん》の名前を出す。  |犬《いぬ》|神《がみ》|使《つか》いの|百《もも》|瀬《せ》麗子。  年下の智と京介に対しても、|容《よう》|赦《しゃ》なく手厳しい態度をとる女性だが、そばにいないとなると、なんとなく心細い。 「麗子さんなら、何やってんの……って|檄《げき》飛ばしてるよ。今のオレたちを見たら」 「うん……そうだな」 「京介、|後《こう》|悔《かい》してる? このバイト引き受けたこと」 「少しな」  京介は、|苦《にが》|々《にが》しく笑う。  智は、首をひねって、|相《あい》|棒《ぼう》の顔を見あげた。 「オレも……少しだけね」 「正直だな、俺たちって。そう思わない、さとる?」 「二人きりなんだから、|嘘《うそ》ついたって、はじまらないでしょ」 「ん……そうだな」  |智《さとる》と|京介《きょうすけ》は、やわらかく|唇《くちびる》を触れあわせる。 「これが最後かな……さとる」 「弱気な言葉は|禁《きん》|物《もつ》だよ、京介。|言《こと》|霊《だま》|信《しん》|仰《こう》ってあるじゃない。口に出した言葉は実現してしまうって。だから……」 「じゃあ、勝ちにいこう」  京介は、智から離れて、立ちあがった。  指を折って、数えはじめる。 「まず、持っていくもののチェックだな。CDラジカセと、|式神召喚用《しきがみしょうかんよう》のCDと……これ、雨んなかでも|大丈夫《だいじょうぶ》かな。いちおうカサも持って、電池の予備と、防水シートと、着替えと……」 「京介、その着替えってのは何?」 「雨のなかで戦ったら、体|濡《ぬ》れるだろ。だから、着替え」  そういう問題じゃない、と智は思う。 「カサってのは? ひょっとして、カサ持って戦う気?」 「雨ガッパのほうがいいかな」  京介は、悪戯っぽい|仕《し》|草《ぐさ》で、目をクルクルまわしてみせる。 (あ……そうか)  京介は、|冗談《じょうだん》を言っているのだと、智は気づいた。  いつもにくらべると、恐ろしくテンションが低い。  笑うに笑えない冗談だ。  だが、今の京介としては精いっぱいだろう。  智の気持ちをなごませるために、一生懸命努力しているらしい。 (ホントに……あんたって人は……。  自分だって|怖《こわ》いんだろうに)  智は、なんだか悲しいような気持ちになってしまう。  京介は、本当に優しいのだ。 (こんなオレのために……あんたはいつも優しくしてくれるから……。  |錯《さっ》|覚《かく》しそうになる……。  オレは、あんたにとって特別なんじゃないかって……)  智は、立ちあがり、京介に歩みよった。 「京介……」  |相《あい》|棒《ぼう》を背中から抱きしめる。 (あんたを失いたくない。  誰にも傷つけさせはしない……) 「どうした、さとる?」  |不《ふ》|思《し》|議《ぎ》そうに、|京介《きょうすけ》が|智《さとる》の手をつかむ。 「さとる?」  その時、ドドーン! という|鈍《にぶ》い音が聞こえてきた。  爆発音に似ている。家の外からだ。  |衝撃《しょうげき》で、窓ガラスがビリビリ震えた。  智は、反射的にCDラジカセの演奏ボタンを押した。  アップテンポの曲が流れだす。コンマ数秒遅れて、|式《しき》|神《がみ》が出現した。 「お呼びでございましょうか、|上主《じょうしゅ》。|睡《すい》|蓮《れん》にございます」  長い黒髪、|漆《しっ》|黒《こく》の|瞳《ひとみ》の美少女。  相変わらず、黒のアンサンブルで、ハイヒールだ。 「睡蓮、戦闘開始だ。アシストを頼む」  智は、早口に言う。  その表情に、さっきまでの甘さはかけらもない。  安心しきって京介の腕のなかにいた時とは、別人のようだ。 「は……かしこまりました」  睡蓮は、|慇《いん》|懃《ぎん》|無《ぶ》|礼《れい》に頭を下げた。 「京介、CDはまかせた!」 「おう!」 「外に|妖《よう》|気《き》がある! 行くぞ!」  智は、〈|呪《じゅ》|符《ふ》DR〉をポケットに押しこみ、部屋を飛びだしていった。  京介も、素早く式神|召喚用《しょうかんよう》のCDラジカセを|抱《かか》えあげた。  智と睡蓮のあとに続く。     第五章 水に|棲《す》む|魔《ま》  |湘南《しょうなん》の海は、雨に煙っていた。  薄暗い空から、|大《おお》|粒《つぶ》の水滴が、ひっきりなしに降り注ぐ。  目の前に、|江《え》ノ|島《しま》への|唯《ゆい》|一《いつ》の陸路である、江ノ島|大《おお》|橋《はし》と|弁《べん》|天《てん》|橋《ばし》。  二つの橋は、仲よくよりそうように並行して、江ノ島まで続いている。  江ノ島大橋は、車両専用の橋である。  島にむかって弁天橋の左側にかかっている。  台風が近いこともあって、|相模《さ が み》|湾《わん》は、珍しく荒れていた。  そして、|逆《さか》|巻《ま》く波のあいだに浮き沈みするのは——。  黒くて長いホースのようなもの。 「|妖《よう》|怪《かい》だ……!」  |智《さとる》が|呟《つぶや》く。 「おそらく、〈いくぢ〉です」  |式《しき》|神《がみ》の|睡《すい》|蓮《れん》が、隣で説明する。 「ご覧のとおり、ウナギのような妖怪で、西の海に多く出るそうです。長さは何千メートルもあり、船の上を越えていく習性があります」 「船の上を越えていく……?」 「はい。〈いくぢ〉は、船を越えていく途中で、大量の油を船のなかにこぼしていきます。そのままにしておきますと、船は油でいっぱいになり、沈んでしまうそうです。本来、人間に対して悪意を持っている妖怪ではないのですが……」  |勝《かつ》|利《とし》は無言で、智と睡蓮の会話を聞いている。  |京介《きょうすけ》は、防水シートで包んだCDラジカセを|抱《かか》え、|茫《ぼう》|然《ぜん》としていた。 (でかい……!)  こんなに大きな生きものを見るのは、初めてだ。  妖怪だから、普通の動物とは違うだろうが、それでも、あの大きさのものが、生きて動いているというのが信じられない。 「〈いくぢ〉には、一つ、困った習性があります」 「その習性というのは、睡蓮?」  智が、|促《うなが》す。 「人間の影を食べると酔う、という習性です。〈いくぢ〉にとっては、人間の影は|麻《ま》|薬《やく》のような効果を表します。江戸時代の|吉《きち》|蔵《ぞう》という術者が、〈いくぢ〉を|操《あやつ》るために、人間の影をあたえた、という実例があるそうです」 「影|盗《と》りは、〈いくぢ〉の|仕《し》|業《わざ》か……」  |京介《きょうすけ》は、ブルッと身震いした。 「いいえ、京介様。〈いくぢ〉は、人間から影だけを|斬《き》ることはできません。影を斬ったのは、|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》の|赤《あか》|沼《ぬま》|英《えい》|司《じ》でしょう。赤沼英司は影使いで、〈影斬り〉という|呪《じゅ》|具《ぐ》を所有しております」 「赤沼が〈いくぢ〉を操ってる……ってわけか」  京介は、ますます|嫌《いや》な顔になる。  物心ついた頃から、|超常《ちょうじょう》現象は大の|苦《にが》|手《て》である。  |智《さとる》が隣にいなければ、とっくに|退《たい》|魔《ま》もほうりだして、東京へ帰っていただろう。 「あれ見い、|鷹《たか》|塔《とう》センセ、ナルミちゃん」  |勝《かつ》|利《とし》が、|弁《べん》|天《てん》|橋《ばし》の中央を指さした。  数十メートルにわたって、転落防止用のフェンスがひしゃげている。  遊歩道のタイルがはがれ、|陥《かん》|没《ぼつ》しているところもある。  さっきの|轟《ごう》|音《おん》は、〈いくぢ〉が、橋に体当たりをかけた音らしい。 「〈いくぢ〉の|奴《やつ》、あそこまで壊しよったん。今は、どうやら、疲れて休んどる|最中《さいちゅう》や」 「なら、今のうちに勝負をつけたほうがよさそうだな」  京介は、手近な植え込みの下にCDラジカセを置いた。  雨がかからないように、防水シートでしっかりくるむ。  嫌なことは、先にすませる主義である。嫌な食べものも、当然、先に食べる。 「さとる、あれ貸せよ、〈|呪《じゅ》|符《ふ》でーる〉」 「京介……あんたって、ホントに……」  智は、|呆《あき》れたような顔になる。 「それを言うなら〈呪符DR〉でしょ。何が〈呪符でーる〉なんだか……。ドラえもんじゃあるまいし……」 「お、俺は、国語は苦手なんだよっ!」 「英語も、物理も、数学も、苦手なんでしょ。京介が得意なのは、体育と調理実習だけのくせに」  智は、京介にむかって|舌《した》を出してみせる。 「ちょっと、おい! さとる、関係ないだろ、それとこれは!」  智は、ポケットから電子手帳サイズの〈呪符DR〉を取り出した。  |睡《すい》|蓮《れん》が、どこから持ってきたのか、智の頭上にサッとカサを差しかける。 「どうぞ、|上主《じょうしゅ》」 「あ、オレはいいから、|京介《きょうすけ》に渡してあげて。|睡《すい》|蓮《れん》は、京介の|援《えん》|護《ご》をよろしく」  |智《さとる》は、京介に〈|呪《じゅ》|符《ふ》DR〉と呪符カードをほうる。 「じゃ、京介、こっちはまかせた」 「こぉら、さとる! |卑怯《ひきょう》だぞっ!」  京介は、|悔《くや》しまぎれに|怒《ど》|鳴《な》る。  だが、すでに、智は|弁《べん》|天《てん》|橋《ばし》の中央にむかって駆けだしていた。 「あかん……!」  |勝《かつ》|利《とし》が、ふいに声をあげた。 〈いくぢ〉が、ゆっくりと体を宙に持ちあげはじめた。  巨大な観覧車のような輪の形になった。 「動きはじめた! 危険や、|鷹《たか》|塔《とう》センセ!」 〈いくぢ〉からそう離れていない橋の中央に、智がいる。  雨に打たれた白い姿。  両手を胸の前で組みあわせ、|印《いん》を結んでいる。 「ナウマク・サマンダ・バザラダン・センダマカロシャダ・ソハタヤ……!」  |真《しん》|言《ごん》が響きわたる。  それは、|幻《げん》|想《そう》|的《てき》な光景だった。  打ちよせる波と、黒い巨大な〈いくぢ〉と、現代的なコンクリートと鉄の橋。  橋の中央に立つ、|凜《りん》とした|美《び》|貌《ぼう》の|陰陽師《おんみょうじ》。  智の姿は、暗い背景のなかで、一点だけ白く浮きあがって見える。 「さとるっ!」  京介は、〈呪符DR〉に、適当な呪符カードを|叩《たた》きこむ。 〈呪符DR〉は、呪符カードをのみこんだ。  一・五秒後、|紫《むらさき》の光を流星のように引いて、七枚の呪符が宙に飛ぶ。  呪符は、〈いくぢ〉にペタリと|貼《は》りついた。  キュオオオオオーン!  異様な声が響きわたる。|妖《よう》|怪《かい》の鳴き声だ。 「ほな、わいも、行くでぇ!」  勝利も、自分の呪符を取り出して、攻撃に転じる。 「禁!」  黄色の光を放って、勝利の呪符が飛ぶ。  呪符は、こちらも、ペタリと〈いくぢ〉に貼りついた。 〈いくぢ〉は、うるさそうに細長い体を波打たせる。  |呪《じゅ》|符《ふ》が、ボ……と黒い|炎《ほのお》をあげて、すべて焼け落ちる。 「ちぃ……|効《き》かんわ!」 〈いくぢ〉が、|威《い》|嚇《かく》するようにブンと頭を振った。  風圧で、|智《さとる》の全身が吹き飛ばされそうになる。  智は、左腕をあげて顔をかばった。ガクッと橋に|膝《ひざ》をつく白い姿。 「オン・ソラソバ・テイエイ・ソワカ!」  再度、智の|真《しん》|言《ごん》が響きわたる。|綺《き》|麗《れい》な発音だ。  |記《き》|憶《おく》がないというのが、|嘘《うそ》のような姿。  異様な|妖《よう》|怪《かい》を目の前にして、一歩も引かない。  智の真言に重なるようにして、〈いくぢ〉の鳴き声。  キュオオオオオーン!  そのまま、黒い輪は、|弁《べん》|天《てん》|橋《ばし》にむかって体当たりをかけてきた。  |狙《ねら》ったように、智の真正面だ。  直撃するまで、もう時間がない。 「さとる……!」  |京介《きょうすけ》は、雨のなか、智にむかって駆けだした。 (死ぬな……!) 「さとるーっ!」  京介は、走りながら、ジーンズのポケットに指を|滑《すべ》りこませる。  冷たい金属の感触。 (さとる……ごめん)  |後《こう》|悔《かい》に似たやるせない気持ちになる。  京介は、一瞬、目を閉じた。 (これを使ったら……俺は……)  京介が、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を使えるのは、あと数回。  それも、長時間はいけない。  無理に天之尾羽張を使いつづければ、急速に|寿命《じゅみょう》が縮みはじめる。  一日に、|他人《ひ と》の一年分の生命力を|消耗《しょうもう》して、やがては死に至る。  だが、京介には、智を見捨てることができない。  そのまま、金属片をつかんで、引きだす。頭上に|掲《かか》げる。 「|顕《けん》|現《げん》せよ、|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》・天之尾羽張!」 「やめんか、ナルミちゃん! 死ぬで!」  |勝《かつ》|利《とし》の|肝《きも》をつぶしたような叫びが後ろで聞こえた。  京介は、純白の光の|剣《つるぎ》を握ったまま、走りつづける。  守りたかった。  |智《さとる》を、ただ守りたかったのだ。 (遠くへ行くなよ……さとる。  俺のそばから離れていくな……) 「さとるーっ!」  |京介《きょうすけ》の|頬《ほお》に、雨が打ちつける。 (死ぬな……!) 「さとるーっ!」  智は、頭上にのしかかる巨大な〈いくぢ〉を見た。  ビルの三階くらいの位置から、黒い胴体が落ちかかってくる。  風雨をついて、京介の悲鳴のような叫びが聞こえた。 「さとるーっ!」 (ああ……京介が呼んでいる。  京介……)  智の全身が、ふいに、青く輝きはじめた。  どうやればいいのか、頭は覚えていない。だが、体が自然に危機に反応する。  |霊《れい》|気《き》が高まっていく。 「|破邪誅伐《はじゃちゅうばつ》……!」  |印《いん》を結んで、〈いくぢ〉を消滅させようとする。  今の智にとっては、たやすいことだった。  その|刹《せつ》|那《な》。  ——苦し……い……。  ——助けて……!  智の胸を引き|裂《さ》くような声が、聞こえたのだった。 「え……?」  同時に、すさまじい痛みが、智の心臓に走った。  何本もの|錐《きり》を|揉《も》みこまれるような|激《げき》|痛《つう》。 「う……ぐっ……!」  ——苦しい……助けて……。 「な……に……?」  智は、混乱した。 (これは……この痛みは……。 〈いくぢ〉が苦しんでる……?)  この苦痛は、〈いくぢ〉のもの。  |智《さとる》の|感《かん》|応《のう》能力が、|妖《よう》|怪《かい》の苦痛をダイレクトに受信したのである。  |激《げき》|痛《つう》のあまり、智は|印《いん》を結ぶことができない。  青い|霊《れい》|光《こう》が薄れていった。  風を切って、落ちかかってくる妖怪の巨大な胴体。  キュオオオオオオーン!  ドドドーン!  空が震えた。  コンクリートの破片が、飛び散った。  二つの橋が、激しく上下する。 「さとるーっ!」 「|鷹《たか》|塔《とう》センセ!」  |京介《きょうすけ》と|勝《かつ》|利《とし》は、揺れ動く|弁《べん》|天《てん》|橋《ばし》に|膝《ひざ》をついて、体を支えた。  立っていられない。  雨が強くなってきた。  妖怪の輪になった胴体は、弁天橋と、その隣の|江《え》ノ|島《しま》|大《おお》|橋《はし》を両断していた。  智は、グッタリと倒れていた。  両断された橋のこちら側に。  意識のない|頬《ほお》を、雨が打っていた。      *    *  降りしきる雨のなかで——。  素早く、|睡《すい》|蓮《れん》が身を起こした。 「|上主《じょうしゅ》……!」  バササッ……!  音をたてて、|式《しき》|神《がみ》の背から、|一《いっ》|対《つい》の|翼《つばさ》が飛びだした。  鳥のような純白の翼。  |雨《あま》|粒《つぶ》が、翼の表面を洗って落ちる。 (|綺《き》|麗《れい》だ……)  こんな時だというのに、京介は、一瞬、睡蓮の姿に目を奪われた。  智の守護天使のような姿。  そのまま、式神は宙に舞いあがった。 「上主!」 〈いくぢ〉が、ビクッと震えた。  |弁《べん》|天《てん》|橋《ばし》が、大きく揺れる。  |京介《きょうすけ》も立ちあがり、|智《さとる》にむかって走った。だが、足もとが安定しない。  橋が揺れるせいもあるが、〈いくぢ〉の油でヌルヌルになっているせいもある。  今にも前につんのめりそうになる。 「さとるーっ! さとるっ!」  |睡《すい》|蓮《れん》が、降下しはじめた。ふわりと智の横に舞い降りようとする。  京介は、わずかに肩の緊張をぬいた。  睡蓮が智を連れてきてくれるだろう。  その時だった。  どこからともなく現れた影が、睡蓮を突き飛ばした。  ふいをつかれた|式《しき》|神《がみ》は、転落防止のフェンスを越えて、海のほうに飛びだす。 「…………!」  影は、十七歳くらいの少年だった。仕立てのよいスーツを着ている。  血も冷えているのではないかと|錯《さっ》|覚《かく》させるような、冷たく整った顔。  感情を殺して、人の命を奪うことに慣れた目。  どこか|能《のう》|面《めん》に似ている。  |赤《あか》|沼《ぬま》|英《えい》|司《じ》だ。 「〈いくぢ〉の苦痛に|感《かん》|応《のう》したのか、智。相変わらず、|反《へ》|吐《ど》が出るほど善良で清潔な|奴《やつ》だな」  赤沼は、軽々と智を|抱《かか》えあげた。  そのまま、橋を|蹴《け》って宙に飛びあがった。  |翼《つばさ》あるもののように、赤沼の体は浮上していく。 「お待ちなさい!」  睡蓮が、翼で方向転換し、赤沼を追いかけた。  赤沼は、なおも急上昇を続ける。  睡蓮が追いつく。あと一歩のところだった。  急に睡蓮が消えた。 「え……どうしたんだ」  京介は、|焦《あせ》った。理由がわからない。  |勝《かつ》|利《とし》が、「ひょっとして」と言いだす。 「ナルミちゃん、式神|召喚用《しょうかんよう》のCD、演奏が止まってへんか」 (しまった……!)  どさくさまぎれで、CDをエンドレスにするのを忘れていた。初歩的なミスだ。  京介は、|後《こう》|悔《かい》の|臍《ほぞ》を|噛《か》む。  上空から、|嘲《あざけ》るような声が降ってきた 「どうした。|式《しき》|神《がみ》が消えたぞ、|鳴海京介《なるみきょうすけ》。もう攻撃は終わりか」 「貴様……|赤《あか》|沼《ぬま》|英《えい》|司《じ》か!?」  京介は、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を握りなおした。  |怒《いか》り|心《しん》|頭《とう》に発していた。 (さとるが連れていかれてしまう……!  ここまで来て、こんな場所で……!  許せねえ!)  |勝《かつ》|利《とし》も、|酷《こく》|薄《はく》な|瞳《ひとみ》で|呪《じゅ》|符《ふ》を構えた。  ふいをつかれて、赤沼に|後《おく》れをとったことで、かなり怒っている。  赤沼とは、|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》同士。いわば同業者だ。  そのあたりの対抗意識もあるのだろう。  が、京介と勝利が仕掛けようとする前に——。  カッ……! と、白い光が|弾《はじ》けた。  あたりが、真昼のように明るくなる。  京介と勝利の濃い影が、|濡《ぬ》れたタイルに落ちる。  光は、京介と勝利の後ろからきていた。  光に照らされて、雨の|雫《しずく》が銀色にきらめく。 「何っ……?」 「ナルミちゃん、あれや!」  勝利の声に、京介は、赤沼と反対側の空を見あげた。  いつの|間《ま》に現れたのか、赤沼の式神が空中にいた。  十二歳くらいの美少女の姿だ。  どこかの国の民族衣装のような、薄いヒラヒラの服を着ている。  少女は、光り輝く|球《たま》を持っていた。片手で頭上に|掲《かか》げている。  この、時ならぬ|閃《せん》|光《こう》の|源《みなもと》だ。 「あ……!」  勝利が、顔色を変えた。 「まずいで、ナルミちゃん! わいらの影が出た!」 「え……?」  一瞬、京介は何を言われたのかわからない。 「影や! 忘れたんか、ナルミちゃん! 敵は影使いや! 影、|盗《と》られるで!」 「バカ! それを早く言え!」 「あの光を消すんや!」  |勝《かつ》|利《とし》が、再び|呪《じゅ》|符《ふ》を構える。  だが、それより早く、|赤《あか》|沼《ぬま》の片手が振りおろされていた。  タタタタタッ!  |鋭《するど》い音をたてて、十センチほどの黒い針が、十数本、橋の表面に打ちこまれた。 「う……!」  針のいくつかは、|京介《きょうすけ》と勝利の影を縫いとめていた。  京介と勝利は、身動きできない。  影を縫われたとたん、体の自由がきかなくなったのだ。  空中に浮かびながら、赤沼はクスッと笑った。  満足げな表情。  片腕で、意識のない|智《さとる》を|抱《かか》えている。  もう一方の手で、〈影|斬《き》り〉を針に変化させ、京介と勝利の動きを|封《ふう》じたのだ。  とっさとはいえ、|無《む》|駄《だ》のない動きだった。  さすがに超一流の|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》である。反応速度が、|尋常《じんじょう》ではない。  京介と勝利は、まるで歯が立たなかった。 「|鈴《すず》|蘭《らん》、|撤《てっ》|退《たい》だ」 「は……」  |式《しき》|神《がみ》は、輝く|球《たま》を天高くほうり投げた。  |綺《き》|麗《れい》な放物線を|描《えが》いて、光球は、ゆっくりと海に落ちていく。  揺らめく光と影。  雨の水滴が、光に照らされてチラチラと|躍《おど》る。  勝ち誇ったような|赤《あか》|沼《ぬま》の声が、聞こえた。 「夕方から夜にかけて、この付近を台風が通過する。橋はもう使えない。荒波のなかに船は出せないだろう。|江《え》ノ|島《しま》の正しい|地《ち》|霊《れい》|気《き》は、橋の|崩《ほう》|壊《かい》によって|断《た》ち切られた。つまり、江ノ島は黒い地霊気が支配している。黒い地霊気のなかでは、|鷹塔智《たかとうさとる》の霊力は|削《そ》がれるが、俺の霊力は増大する」  赤沼は、声をあげて笑う。|嘲《あざけ》るような笑い。  その腕のなかの智は、まだ意識を取り戻さない。 「俺は、この|嵐《あらし》のなかで鷹塔智を殺す。鷹塔智の死体を返してほしくば、江ノ島まで取りにこい。ただし、明日になったら、俺は島を離れる。智の死体も一緒だ。|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》様がご|所《しょ》|望《もう》なのでな」 「黙れよ! その前に、てめーをぶっ殺して、さとるを生きたまま取り返す!」  光球が海に落ちると、周囲が暗くなった。  影が消えるのと同時に、|京介《きょうすけ》と|勝《かつ》|利《とし》の体が自由になった。  京介は、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を構えた。 「|誅伐《ちゅうばつ》してやる……!」  天之尾羽張の|柄《つか》をギュッと握りしめる。全身の|霊《れい》|気《き》を、右手に集めた。  純白の光が強く輝きだす。 「待て、ナルミちゃん! 天之尾羽張はマズいで!」 「うるせー!」 「やめんか、ナルミちゃん! あんたが鷹塔センセより先に死ぬで!」 「うるさい、うるさい、うるさいっ!」  京介は、天之尾羽張を|槍《やり》のように構え、|狙《ねら》いをつけた。  赤沼に投げつけようというのだ。  赤沼は、|哀《あわ》れむような目をした。 「命を|粗《そ》|末《まつ》にするなよ、|鳴《なる》|海《み》京介」  声と一緒に、突風が京介にむかって吹きつけた。  一瞬、目をそらした|隙《すき》に——。  赤沼たちの姿は、消えていた。  智も連れていかれてしまった。 〈いくぢ〉が、ゆっくりと身じろぎし、海に沈んでいった。 「あの|野《や》|郎《ろう》……!」  |京介《きょうすけ》は、|唇《くちびる》を|噛《か》みしめた。  自分の無力が、どうしようもなく|悔《くや》しかった。 (|赤《あか》|沼《ぬま》|英《えい》|司《じ》……自信たっぷりな顔しやがって。  大人みたいな余裕かまして……。  てめーは、そんなに偉いのか……!)  赤沼の力は、圧倒的だった。  |完《かん》|璧《ぺき》な京介の|気《き》|迫《はく》|負《ま》けだった。  JOAで厳しい修業を積んだ赤沼と、|我流《がりゅう》でつっ走ってきて、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》の力でようやく一人前になれる京介の実力の差。  それは、いわば、プロとアマチュアの違いである。  レベルが違いすぎた。  京介は、|智《さとる》が連れ去られるのを、どうすることもできなかった。 (さとるを守るって約束したのに。  俺は無力だ……) 「ナルミちゃん……」  |勝《かつ》|利《とし》が、|慰《なぐさ》めるように肩に手を置く。  京介は、無言で天之尾羽張をもとの金属片に戻した。  全身が|濡《ぬ》れて、冷えきっていた。  前髪をつたって、水滴が目に流れこんでくる。  京介は、目を|瞬《またた》いた。 (涙じゃない……これは……雨だ) 「俺も……」  |呟《つぶや》く声は、勝利の耳に届かない。  京介は、荒っぽく|袖《そで》|口《ぐち》で目をこすった。 「え? なんやて、ナルミちゃん? 波の音がやかましゅうて聞こえんわ」 「俺も……力が欲しい。もっと力が欲しい」 「ナルミちゃん」 「赤沼なんかに負けねーような力、欲しいんだよ!」  荒れ狂う海にむかって|怒《ど》|鳴《な》る。  |喉《のど》も|裂《さ》けよとばかりに。  京介は、壊れかけた転落防止用のフェンスにしがみつき、叫び声をあげた。 「さとるーっ! さとるーっ!」  もう、なかばヤケだった。  さんざん叫んで、叫び疲れて、肩で息をしている|京介《きょうすけ》の腕を、|勝《かつ》|利《とし》がポンと|叩《たた》く。 「さ、行くで」 「どこへ?」 「|江《え》ノ|島《しま》に決まっとるわ。わいのクルーザーがあるんや。海から江ノ島へ入るで」 「この|成《なり》|金《きん》|野《や》|郎《ろう》、クルーザー持ちかよ。最低だぜ……野郎と仲よくクルーザーか?」  勝利は、京介が|臍《へそ》を曲げるのではないかと思ったらしい。 「ナルミちゃん……」 「は……最低な気分の時にゃ、ちょうどいいじゃんか」  京介は、江ノ島と勝利に背をむけた。  大破した|弁《べん》|天《てん》|橋《ばし》を、ゆっくりと船着き場のほうへ歩きだす。  勝利は、ため息をついた。植え込みの|陰《かげ》から、CDラジカセを拾いあげる。  防水シートにくるまれていたおかげで、水は入っていないようだ。  勝利は、注意深い視線を京介に注いだ。 (力っちゅうんは、|麻《ま》|薬《やく》みたいなもんやで、ナルミちゃん……。  それを欲しいと思いはじめたら、もうおしまいや。  ナルミちゃん、あんた、もうこの業界からぬけられんなあ……一生。  普通の生活には戻れん……)  京介は、何も知らない。  力を得ることには、|代償《だいしょう》がつきまとうのだということも。  一度支払ってしまった代償は、もう取り返しがつかないのだということも。  京介は、|赤《あか》|沼《ぬま》の力に|羨《せん》|望《ぼう》を感じていた。  強い者に|魅《み》せられて、反発しながら、|惹《ひ》かれていた。  普通であることは、そんなにつまらないことではないのだけれど。  少年の年頃には、気づくことができない。  たぶん、誰でも、最初はこうして始まるのだろう。  力に|憧《あこが》れて。  力を夢みて。  だが、その果てに待つものは、幸福とは限らない。      *    *  |稚《ち》|児《ご》|ヶ《が》|淵《ふち》。  江ノ島|西《せい》|端《たん》にあり、|断《だん》|崖《がい》と二つの|洞《どう》|窟《くつ》を見あげる海辺に位置している。  二百メートルほどの長さの、平らな岩場である。  背後が|断《だん》|崖《がい》、まわりは海。  海の向こうには、対岸の白っぽい浜辺が見える。  ここ|江《え》ノ|島《しま》には、いくつもの伝説がある。  |竜神《りゅうじん》伝説、|羽衣《はごろも》伝説、|埋《まい》|蔵《ぞう》|金《きん》伝説……。  だが、なかでも最も|哀《あわ》れを|誘《さそ》うのは、|自休《じきゅう》と|白《しら》|菊《ぎく》の|悲《ひ》|恋《れん》伝説であろう。  |鎌《かま》|倉《くら》時代のことだ。  鎌倉|建長寺《けんちょうじ》の|僧《そう》、自休は、鎌倉|相《そう》|応《おう》|院《いん》の|稚《ち》|児《ご》、白菊と、|弁《べん》|財《ざい》|天《てん》への|参《さん》|詣《けい》の途中で出会い、恋に落ちた。  自休は、美しい白菊のことが|脳《のう》|裏《り》を離れず、通いつめた。  だが、白菊は自休との恋に悩み、苦しんだ。  ついには、白菊は、|湘南《しょうなん》の海に身を投げて死んだという。  白菊の死を知った自休は、 『白菊の花の情の深き海に共に入江の島ぞ嬉しき』 と、歌を残して、白菊のあとを追ったという。  白菊の身投げした場所は、現在も、その伝説から|稚《ち》|児《ご》|ヶ《が》|淵《ふち》と呼ばれている。  江ノ島第一|洞《どう》|窟《くつ》——。  観光用の照明施設があって、なかは明るい。  |赤《あか》|沼《ぬま》は、コンクリートの|床《ゆか》に|膝《ひざ》をつき、じっと|智《さとる》の顔を見おろした。  意識のない智は、グッタリとしている。  |蒼《そう》|白《はく》な|頬《ほお》に、長い|睫《まつげ》が影を落としていた。 「智……」  四年ぶりの再会だった。  赤沼は、傷つけないかと心配するように、そっと智の頬に手をのばす。  |呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》は、優しい目をしていた。 「会いたかった……智」  洞窟の外では、台風が吹き荒れている。  江ノ島で|猟奇《りょうき》事件が|相《あい》|次《つ》いでから、洞窟の観光客への一般公開は、中止されたままである。  江ノ島の住人たちも、JOAが裏で手をまわして、一時的に近郊へ避難させている。  橋が分断され、海も荒れ狂い、孤立したこの島で——赤沼は、智と二人きりだった。  明日には、智はこの世にはいない。  じきに、|惨《さん》|劇《げき》の幕があがる。  |赤《あか》|沼《ぬま》が、|智《さとる》のために用意した血みどろの|祭《さい》|壇《だん》。  智の|断《だん》|末《まつ》|魔《ま》を飾るための、最高の舞台。  |稚《ち》|児《ご》|ヶ《が》|淵《ふち》。  赤沼は、この岩場によどんだ黒い|地《ち》|霊《れい》|気《き》を解放するつもりだった。  智の血を、解放のための|犠牲《いけにえ》として。  黒い地霊気を吸いこみ、さらに霊力をアップさせる。  そして、赤沼は、この国の|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》の頂点に立つのだ。 (今だけだ……。  優しくするのは……今だけ)  夢にまでみた智が、目の前にいる。  千度も頭のなかで思い|描《えが》いたとおり、意識不明のまま。  苦しげにのけぞった|喉《のど》は、まだ雨に|濡《ぬ》れている。  薄く開いた|唇《くちびる》、無防備に投げだされた腕、コットンシャツの|貼《は》りついた|肌《はだ》。 「智……」  赤沼は、無意識のうちに|舌《した》で唇をなめる。  心臓の|鼓《こ》|動《どう》が速くなった。  赤沼の手は、しかし、智の|頬《ほお》に触れる寸前、|火傷《や け ど》したように引っこめられた。 (何をしている、赤沼|英《えい》|司《じ》……その手は、なんのつもりだ)  自分で、自分を|嘲笑《あざわら》う。  四年分の|懊《おう》|悩《のう》の|記《き》|憶《おく》は、赤沼を素直にはさせてくれない。 (ようやく帰ってきた恋人でも相手にしてるつもりか。  そいつは、智は、おまえのことなんか覚えていないんだぞ)  赤沼は、クククッと笑いだした。 「覚えていなくて|幸《さいわ》いだよなあ……智。友達だと信じていた男が、こんな呪殺者なんかになってなあ……こんな薄汚い人殺しなんかに……」  赤沼の|額《ひたい》の古傷が、ズキリと痛む。  智を忘れないために、自分で刻みつけた|斜《なな》めの|傷《きず》|痕《あと》。 「智……」  赤沼は、片手で額を押さえた。  傷が痛い。  いや、痛いのは心だ。  今にも張り|裂《さ》けてしまいそうだ。  こんなものに、なりたかったわけではない。  人を殺す術にだけ|長《た》けて、誰にも愛されない呪殺者など……。  |闇《やみ》の住人になど。  なりたかったわけではない。  |呪《じゅ》|殺《さつ》技術に誇りを持っていると言ったところで、それが|欺《ぎ》|瞞《まん》でしかないのは、自分がいちばんよくわかっている。  願ったものは、なんだったろう。子供の頃に夢みたものは。 「|智《さとる》……」  |赤《あか》|沼《ぬま》は、|額《ひたい》の古傷に|爪《つめ》をたてた。ヤケになったように、力をこめて|抉《えぐ》る。  新しい痛みで、古い痛みを消そうとするように。 「う……っ!」  力を入れすぎたようだ。  ツツーッと鮮血が流れ落ちてきた。  赤沼は、血に|濡《ぬ》れた指先を目の前にかざした。  ペロリと指先をなめる。|鉄《てつ》|臭《くさ》い血の味が口のなかに広がった。  呪殺者は、薄く笑った。 (願ったものは……もう手に入らないんだよ、赤沼|英《えい》|司《じ》。  太陽の光と|温《ぬく》もりは……)  四年前のあの日から、智と赤沼の道は、決定的に分かれてしまったのだ。  一方は光のなかへ、一方は闇のなかへと。  赤沼は、智の顔をじっと見おろした。  多かれ少なかれ、闇に生きる呪殺者たちは、光に|憧《あこが》れる。赤沼も、例外ではなかった。  この国の|霊《れい》能力者たちのなかで、光と救いを|象徴《しょうちょう》するのは、|鷹《たか》|塔《とう》智。  千年に一人の天才|陰陽師《おんみょうじ》。  白い|救世主《きゅうせいしゅ》。 「智……」  赤沼は、静かに身を|屈《かが》めていった。  薄く開いた|唇《くちびる》に唇をよせる。 「おまえを愛していた……」  愛していた。  それは、過去形でしかないけれど。  なぜなら、赤沼と智のあいだには、もう未来はないのだから。  智は、今夜死ぬ。赤沼が殺すのだ。  赤沼は、|自《みずか》らの手で、最後の光を打ち|砕《くだ》く——。  その時、ふいに、智の|瞳《ひとみ》が開いた。  まぢかにある赤沼の顔に気づいても、驚いた様子はない。  ギクリとして飛び離れたのは、|赤《あか》|沼《ぬま》のほうだった。  |智《さとる》の|瞳《ひとみ》が、|濡《ぬ》れていた。  |透《す》きとおった涙が、ひと筋、ふた筋、流れだす。  |綺《き》|麗《れい》な|水晶《すいしょう》の涙。 「智……?」 「どうしたんだろう……オレ、悲しくて……涙が止まらない……」  智の言葉に、赤沼は顔をそむけた。  つらすぎる。  智は、赤沼の悲しみに|感《かん》|応《のう》していた。  赤沼の悲しみを、そのまま受け入れて、泣いている。  天があたえた感応能力。  赤沼は、狂おしい|嫉《しっ》|妬《と》を感じてしまう。  その力が欲しい。 「あんた、|額《ひたい》に|怪《け》|我《が》してる……血が……」  智は、まだボーッとしているようだ。  横になったまま、ぼんやりと赤沼を見あげている。  |警《けい》|戒《かい》している様子は、まるでない。  考えてみれば、智は橋の上では赤沼の顔を見ていない。赤沼が現れる前に、意識を失ったためだ。 「|大丈夫《だいじょうぶ》ですか……手当てしないと」 「ああ。たいしたことはないんだ」  智は、ホッとしたように|微《ほほ》|笑《え》んだ。困ったように身を起こし、足を投げだして座る。  |凜《りん》とした瞳は、まだ涙を浮かべていた。 「変だな……オレ……涙が止まらないんです。|嫌《いや》だな……子供みたいだ。恥ずかしい……」  智は、手の甲で涙を|拭《ふ》こうとして、全身が雨に濡れているのに気づく。 「なんでオレ……こんなびっしょりで……あ」  状況がようやくのみこめたようだ。  智は、|慌《あわ》てて周囲を見まわし、赤沼を|凝視《ぎょうし》した。  涙をためた瞳が、どんどんきつくなっていく。  赤沼は、智の表情の変化を、やりきれない気持ちで|眺《なが》めていた。  優しい時間は、あっという|間《ま》に過ぎてしまった。  あとは戦うしかない。 「ひょっとして、ここ、|江《え》ノ|島《しま》の|洞《どう》|窟《くつ》……?」 「そうだ。古くは|金《きん》|窟《くつ》、|霊《れい》|窟《くつ》、|蓬《ほう》|莱《らい》|窟《くつ》などと呼ばれた」  |智《さとる》が息をのむ|気《け》|配《はい》。 「あんた……|赤《あか》|沼《ぬま》|英《えい》|司《じ》……?」  その時だった。  ドドドーン!  岩が|砕《くだ》けるようなものすごい音がした。 「英司様! 〈いくぢ〉が、|稚《ち》|児《ご》|ヶ《が》|淵《ふち》で暴れております! |稚《ち》|児《ご》|ヶ《が》|淵《ふち》が、|跡《あと》|形《かた》もなく破壊されるのも時間の問題かと」  |式《しき》|神《がみ》の|鈴《すず》|蘭《らん》が、飛びこんでくる。 「何っ!?」  赤沼は、|我《われ》知らず立ちあがっていた。 〈いくぢ〉のこんな行動は、予定にはない。  黒い|霊《れい》|気《き》の|溜《た》まりである稚児ヶ淵を破壊されたら、計画のすべてが水の泡だ。 「稚児ヶ淵を破壊させるわけにはいかん!」  赤沼は、〈|影《かげ》|斬《き》り〉を素早く黒い|太刀《たち》の形に変えた。  そのまま、|洞《どう》|窟《くつ》の外へ走りだす。     第六章 禁じられた|剣《つるぎ》  夜空は晴れはじめていた。  黒っぽい雲が勢いよく流れていく。  時おり、星が見えた。  |湘南《しょうなん》一帯が、台風の目に入ったのだ。  ポツリ、ポツリと、思い出したように降る雨。  荒れた|相模《さ が み》|湾《わん》を、|一《いっ》|隻《せき》の白いクルーザーが進んでいく。  乗っているのは、|京介《きょうすけ》、|勝《かつ》|利《とし》、それに式神の|睡《すい》|蓮《れん》である。  クルーザーは、|江《え》ノ|島《しま》の西、稚児ヶ淵方面にむかっていた。  ヨットハーバーは、島の東にあるのだが、洞窟へ行くならば、稚児ヶ淵で降りたほうが近い。稚児ヶ淵にも、規模は小さいとはいえ、|遊《ゆう》|覧《らん》|船《せん》|用《よう》の船着き場があった。 「ナルミちゃん、無事に生きてんか?」 「ああ……なんとか……」  船内には、だいぶ水が入っていた。  |嵐《あらし》で船酔いもせず、元気なのは、|式《しき》|神《がみ》の|睡《すい》|蓮《れん》だけだ。  |京介《きょうすけ》は、グッタリしながら、船内にあった小さなバケツで水を|掻《か》きだしていた。  と、その時、海上を赤い火の玉が、|漂《ただよ》ってくるのが見えた。  十数個あるだろうか。どれも、野球のボールくらいの大きさだ。 「う……げっ……!」  |超常《ちょうじょう》現象には、めっぽう弱い京介である。  半分、涙ぐんでしまう。  火の玉は、あっという|間《ま》に|船《ふな》|端《ばた》によってきた。  ——|柄杓《ひしゃく》貸せ……柄杓……。  ——柄杓貸してくれぇ……。  |陰《いん》にこもったような声が、ブツブツと呼びかけてくる。  京介の背筋が|粟《あわ》だつ。  暗い海で、今にも浸水して沈みそうなクルーザーのなかである。  状況ができすぎていた。 (これって……もしかして……|正真正銘《しょうしんしょうめい》の|妖《よう》|怪《かい》じゃ……) 「か、|勝《かつ》|利《とし》|君《くん》……」 「ん……? なんや?」  のんびりした勝利の声が聞こえてくる。  ——柄杓貸せ……柄杓貸せ……。 「勝利君っ! 助けてっ!」  もう恥も|外《がい》|聞《ぶん》もなかった。  京介は悲鳴をあげる。 「オカルトは|嫌《いや》ぁーっ!」 「なんや、|情《なさ》けない悲鳴あげよって」  睡蓮に|操《そう》|船《せん》をまかせた勝利が、京介のそばにやってきた。 「勝利君っ、これっ! これっ!」  震える手で、火の玉を指さす。  さすがに、勝利も、船端をかこむ火の玉にギョッとしたようだった。 「これは……〈まよい〉やな」 「まよい?」 「|船《ふな》|幽《ゆう》|霊《れい》の一種や。柄杓、絶対に渡したらあかんで。船、沈められて、|一《いっ》|巻《かん》の終わりや」 「誰が渡すかよ!」  と、火の玉がチカチカと明滅しはじめた。  それと同時に、クルーザーの船首がグルッと反対方向にむいた。  |江《え》ノ|島《しま》に背をむけて、沖へ進んでいく。  船首で|泡《あわ》だつ波。ものすごいスピードだ。 「おい……おいっ! ちょっと、|睡《すい》|蓮《れん》、何やってんだよっ! 江ノ島へ行くんだぞ! 反対側へ行って、どうする!」  |京介《きょうすけ》は、|焦《あせ》って|怒《ど》|鳴《な》る。 「|舵《かじ》がとれません。何かに|操《あやつ》られている感じです」  睡蓮の冷静な答えが返ってくる。 「〈まよい〉のせいや……」  |勝《かつ》|利《とし》が低く|呟《つぶや》く。 「〈まよい〉が、船の針路狂わしたりする話、聞いたことあるわ」 「|冗談《じょうだん》じゃねえよ! なんとかしてくれよ、勝利君!」  そうこうしているうちに、ザザーッと、|船《ふな》|端《ばた》から海水が入ってくる。 「お……おいっ! 沈むぞ!」 「〈まよい〉は下等な|妖《よう》|怪《かい》や。わいの|念《ねん》|縛《ばく》は|効《き》かん。そもそも、|退《たい》|魔《ま》はわいの専門やない。あんたの専門やろ、ナルミちゃん」 「俺は|智《さとる》の付き添いだ!」  勝利は、ケッと呟く。 「無能を自慢すな」 「なんだって……勝利君、聞き捨てならねーな」 「アホ。|喧《けん》|嘩《か》しとる場合やないわ」  勝利は、|印《いん》を結んだ。 「やれるかどうかはわからんで。……専門外やから」 「能書きはいいから、やれよ」  言いながら、京介の手は、ブルブル震えている。  勝利の手前、|虚《きょ》|勢《せい》をはっているが、妖怪は理屈ぬきで|苦《にが》|手《て》だ。  勝利が、京介の様子に気づいて、ニヤリとする。 (アホが……強がっとるわ) 「ナウマク・サマンダ・ボダナン・バロダヤ・ソワカ!」  |真《しん》|言《ごん》が流れだしたとたん、クルーザーが上下左右に揺れはじめた。  大きくかしいだ船端から、海水がどんどん入ってくる。 「うわっ! 何したんだよ、勝利君っ! さっきより悪いじゃないか!」  京介が悲鳴をあげる。  手近なものにしがみついていないと、今にも振り落とされてしまいそうだ。  |勝《かつ》|利《とし》も、|蒼《そう》|白《はく》な顔をしている。 「わいのせいやない! 〈まよい〉が怒ったんや」 「怒らせるような|真《ま》|似《ね》するからだ!」 「なんとかしろゆうたんは、ナルミちゃんやで」  みっともなく言い争っていると、|睡《すい》|蓮《れん》の声が聞こえた。 「計器が動きません。|沈《ちん》|没《ぼつ》します」  |嫌《いや》になるくらい冷静な声だ。  そのとたん、クルーザーの|船《せん》|尾《び》が、グググググッ……と持ちあがった。  |京介《きょうすけ》と勝利は、勢いでひっくりかえりそうになる。 「え……?」 「なんやっ!」 「沈むぅーっ!」  京介は、目を閉じた。 (さとる……ごめん)  そのまま、十秒、二十秒……。  が、いっこうに、塩からい海の水がかぶさってくる|気《け》|配《はい》はない。  京介は、恐る恐る目を開いた。 「あ……や……?」  |遥《はる》か前方の海上に、|江《え》ノ|島《しま》の明かりが見えた。  クルーザーは、さっきより速いスピードで、江ノ島へむかっている。  |禍《まが》|々《まが》しい火の玉は、|嘘《うそ》のように消えてしまった。 「睡蓮、何があったんだ?」 「計器は死んだままです。何かがクルーザーを下から支えて、動かしています」 「下から支えてる……?」  どういうことだ、と思った時。  京介の腕を、|勝《かつ》|利《とし》がツンツンとつつく。 「ナルミちゃん……あれ」  指さされて見ると、海面に、何か黒っぽいホースのようなものが、いくつも浮いている。  場所によっては、ぬらぬらした棒のようなものも見える。  どこかで見覚えのある形だ。 「え……?」  京介の|喉《のど》がヒィッと鳴る。 「い……〈いくぢ〉だ」  クルーザーの周囲を、十数匹の〈いくぢ〉が取り巻いていた。  いや、十数匹どころではない。  見渡すかぎり、〈いくぢ〉の群れだ。  クルーザーを下から支えているのも、〈いくぢ〉だろう。 「は……|破《は》|邪《じゃ》……|誅伐《ちゅうばつ》しなきゃ……」  |京介《きょうすけ》は、ガクガク震えながら、ポケットの金属片に手をのばす。  勝ち目はないだろう。だが、このままでは……。  京介の手首を、|勝《かつ》|利《とし》が強く押さえた。  見ると、不良少年の目が真剣だった。 「あかん、ナルミちゃん」 「でも……!」 「落ち着きぃ、ナルミちゃん。〈いくぢ〉たちは、わいらを助けてくれてるんや」 「助けてくれてる……?」 「そや。|江《え》ノ|島《しま》まで、案内してくれてるわ。たぶん、〈まよい〉を追い払ってくれたんも、〈いくぢ〉たちや」  なるほど、勝利の言葉どおり、〈いくぢ〉たちは、クルーザーごと京介たちを江ノ島まで運んでいた。  江ノ島の明かりがどんどん近くなってくる。 「なんで……〈いくぢ〉が、俺たちにこんなことしてくれるんだ」 「わいの|人《じん》|徳《とく》やな」  勝利が、えらそうに胸をはってみせる。 「いったいなんなんだよ、その|根《こん》|拠《きょ》のない自信は……」  京介は、頭を|抱《かか》えた。  ポツポツ降っていた雨も、あがった。  風はまだ強いが、空にくっきりと|鮮《あざ》やかな月が出た。  満月だ。  京介は、近づいてくる江ノ島の|岸《きし》|辺《べ》に目を|凝《こ》らした。  大小の岩が岸辺につらなり、高い|断《だん》|崖《がい》は木々におおわれている。  |古《いにしえ》から、|霊場《れいじょう》として知られた島。  島の中央、こんもりと茂った木々のあいだから、展望台が頭をのぞかせていた。  あの島の|洞《どう》|窟《くつ》に、|智《さとる》がいる。  京介の助けを待っているのだ。 「待ってろよ、さとる……助けてやるからな」  京介は、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》の金属片を握りしめた。  びしょ|濡《ぬ》れの体に、海の風は冷たい。  凍りつくような冷気が、全身に|染《し》みわたる。  |天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を使えるのは、あと一回。  |京介《きょうすけ》は、その一回に|賭《か》けるつもりだった。  |勝《かつ》|利《とし》は、無言で京介の思いつめた横顔を見守っていた。 「止めても|無《む》|駄《だ》やろな……」  低い|呟《つぶや》きは、波の音にかき消される。  やがて、クルーザーは、|稚《ち》|児《ご》|ヶ《が》|淵《ふち》を真正面にとらえた。  ドドドーン!  岩の|砕《くだ》ける|轟《ごう》|音《おん》がした。 「どうしたっ?」 「なんの音や……」  クルーザーの周囲の〈いくぢ〉たちが、興奮したように波をはねかす。  ドドドーン!  再び、耳をつんざく轟音。  京介は、稚児ヶ淵の暗い岩場に、何か動くものを見た。  |観《かん》|覧《らん》|車《しゃ》のような黒い輪が一つ、岩場に突進していく。 「〈いくぢ〉だ……」 「え、なんやて、ナルミちゃん」 「〈いくぢ〉が暴れてる……」  クルーザーのスピードが、さらに加速する。  周囲の〈いくぢ〉たちは、一刻も早く、京介と勝利を稚児ヶ淵へ連れていこうとしていた。  京介と勝利は、顔を見あわせた。  お互い同じことを考えているのは、すぐわかった。 「もしかして……」 「たぶん、そうや」 「こいつら、あの岩場で暴れてる〈いくぢ〉を助けてほしいんだ……」      *    *  |鈍《にぶ》い金属音をたてて、クルーザーは船着き場に接岸する。  京介は、|睡《すい》|蓮《れん》の|召喚用《しょうかんよう》のCDラジカセを|抱《かか》えたまま、飛び降りた。  そのまま、走りだす。  後ろから、勝利と睡蓮が追ってくるのがわかった。  ドドドーン! 〈いくぢ〉が、|稚《ち》|児《ご》|ヶ《が》|淵《ふち》に体当たりをかけている。  |妖《よう》|怪《かい》の気持ちは|京介《きょうすけ》にはわからないが、なんだか苦しそうだ。 「やめろ、〈いくぢ〉! 仲間も心配してるぞ!」  京介は、|凸《でこ》|凹《ぼこ》のある岩場を走りながら、〈いくぢ〉にむかって呼びかけた。  言ってわかるとは思わなかった。  だが、思いがけないことに、暴れていた〈いくぢ〉が、京介の声に反応した。  満月の下で、巨大な|蛇《へび》のような体がピタリと静止する。  黒い体を弓なりにして。  目も鼻もなさそうなツルツルの頭部が、京介のほうを見たようだ。  キュオオオオオーン!  |切《せつ》なげな〈いくぢ〉の声。 「〈いくぢ〉……おまえ……」  京介は、ドキリとした。 〈いくぢ〉は、助けを求めている。  なぜだか、それがわかった。  その時だった。 「オン・シュチリ・キャラロハ・ウンケン・ソワカ!」  血が凍るような冷たい声が、|真《しん》|言《ごん》を|唱《とな》えた。  声は、上のほうから聞こえてくる。  京介は、反射的に上を見た。|岸《がん》|壁《ぺき》の途中に、いかにも観光用といった橋がある。橋は、|洞《どう》|窟《くつ》へと続いていた。  そして、洞窟の入り口に、黒い影が立っていた。  |眩《まばゆ》い照明を背にして、その表情はわからない。 「|赤《あか》|沼《ぬま》|英《えい》|司《じ》……!」 「|愚《おろ》か者ぉ!」  |嘲《あざけ》るような声と同時に、|殺《さっ》|気《き》が走った。  タタタタタタッ!  黒い針が岩場に打ちこまれる。  とっさに、京介は横に飛びすさった。  だが、敵はいつの|間《ま》にか隣にいる。  月明かりに照らされて、|冷《れい》|酷《こく》な顔がニヤリと笑うのが見えた。 (|嘘《うそ》……速すぎる……!) 「ナルミちゃん!」  |勝《かつ》|利《とし》の手もとから、|呪《じゅ》|符《ふ》が飛ぶ。黄色の光を流星のように引いて。 「禁!」  だが、勝利の呪符は、あっけなく|叩《たた》き落とされる。  |赤《あか》|沼《ぬま》の動きは、|獣《けもの》のように速い。  |京介《きょうすけ》は、CDラジカセを足もとに置き、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》の金属片を引き抜いた。意識を集中する。  その横腹に赤沼の|蹴《け》りが入る。  |降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》が|顕《けん》|現《げん》する前だった。集中が破れる。 「うぐっ……!」  京介は、二メートルほど|弾《はじ》き飛ばされ、岩場に|激《げき》|突《とつ》した。  ズキッ……と、全身に|激《げき》|痛《つう》が走る。  赤沼は、今度は勝利に攻撃を加えている。 「京介!」  ふいに、|懐《なつ》かしい|智《さとる》の声が夜の|闇《やみ》を切り|裂《さ》いた。  京介は、声の方向を見た。  |洞《どう》|窟《くつ》の入り口の人影が、橋の|欄《らん》|干《かん》を越えて、飛び降りるのが見えた。  欄干から下の岩場までは、三メートルはある。 (まさか……さっきのあれは、さとるか?)  洞窟の入り口にいた人影は、赤沼かと思ったのだが。  |睡《すい》|蓮《れん》の背からバサッと|翼《つばさ》が出る。  |式《しき》|神《がみ》は、低空を飛んで、落ちてくる智を受けとめようとする。  だが、落下速度のほうが速い。 「さとるーっ!」  京介は、ズキズキ痛む体で|跳《は》ねおき、智にむかって全力|疾《しっ》|走《そう》した。  岩場の|凸《でこ》|凹《ぼこ》に足をとられ、つんのめりそうになる。 「さとるっ!」  |断《だん》|崖《がい》の下に、白い翼を広げて、睡蓮が立っていた。  その後ろに、智がしゃがみこんでいるのが見えた。 (まさか……さとる、|怪《け》|我《が》してるんじゃ……) 「さとるーっ!」  京介は、|慌《あわ》てて智に駆けよった。そばに|膝《ひざ》をついた。  天之尾羽張は、心配かけまいと、ジーンズのポケットに隠す。 「|大丈夫《だいじょうぶ》か、さとる? 怪我は?」  肩をつかんで、声をかける。  |智《さとる》は、子供のように|京介《きょうすけ》の腕にしがみついてきた。  頼りなげな|仕《し》|草《ぐさ》。 「京介……京介……!」 「どうした、さとる? |大丈夫《だいじょうぶ》か、おい……」 「苦しい……|感《かん》|応《のう》する……」  どうやら、智に|怪《け》|我《が》はないようだ。  だが、|厄《やっ》|介《かい》な感応能力のせいで、苦しんでいる。 「まさか……〈いくぢ〉か、さとる? 〈いくぢ〉の苦痛か?」  京介の胸に押しつけられた智の頭が、小さく横に振られる。 「〈いくぢ〉じゃないのか、さとる?」 「違う……〈いくぢ〉だけど……〈いくぢ〉だけじゃない」 「〈いくぢ〉だけじゃない?」  じゃあ、なんの苦痛だと|訊《き》こうとして、京介は口ごもった。 (|江《え》ノ|島《しま》にいる別の|妖《よう》|怪《かい》や|怨霊《おんりょう》だったら、どうしよう……)  智の指が、苦しまぎれに、ギュッと京介の腕に食いこむ。 「どうしよう、京介。どうしよう……これ、|赤《あか》|沼《ぬま》|英《えい》|司《じ》の……なんだ」 「え、赤沼の……何?」 「赤沼さんの苦痛と悲しみ。痛いんだ……胸がひどく痛くて……悲しい……」  京介は、ガツンと|脳《のう》|天《てん》を|殴《なぐ》られたような気がした。 「|嘘《うそ》だろ……おい。あんな|奴《やつ》に同情すんなよ、さとる! 敵だぞ!」 「敵でもだよ……」  |切《せつ》なげにあおむく顔。  その顔を見て、京介は思わずギョッとした。  智の|頬《ほお》が|濡《ぬ》れている。  |凜《りん》とした|瞳《ひとみ》も、今は涙でいっぱいだ。  |綺《き》|麗《れい》な涙が、次から次へと流れ落ちている。 (そんなにつらいのか……?  おまえ、赤沼なんかのために泣くのか……さとる)  強い酸のように、京介の胸を焼く|嫉《しっ》|妬《と》。  こんな時に何を……と理性では思うのだが、感情は|制《せい》|御《ぎょ》できない。 「さとる、やめろよ。バカみたいな同情は、命とりだぞ」 「ごめん……京介。心配かけて……」  智は、震えながら、立ちあがろうとする。 「でも、オレ、赤沼さんと〈いくぢ〉をなんとかしなきゃ……」  次の瞬間、|智《さとる》は、|京介《きょうすけ》の手を振りはらい、走りだした。 「待て、さとる!」  京介は、数秒遅れて、智を追いかけた。  智の思いつめた様子に、不安を感じた。  智の全身が、青く輝きはじめた。  清らかな|浄化《じょうか》の|霊《れい》|光《こう》。 「オン・ハンドマダラ・アボキャジャヤニ・ソロソロ・ソワカ!」  智は|印《いん》を結び、|不空羂索観音《ふくうけんじゃくかんのん》の|真《しん》|言《ごん》を|唱《とな》える。  真言が響きわたると、智の頭上に金色の|錫杖《しゃくじょう》が出現した。  智が手をあげる。錫杖は、その|仕《し》|草《ぐさ》に呼びよせられたように、智の手のなかに自然におさまった。 「え……なんだよ……あれ」  京介が、思わず足を止めて|呟《つぶや》く。 「不空羂索観音の錫杖です。真言を唱えて、一度、霊力を不空羂索観音にお預けし、代わりに|菩《ぼ》|薩《さつ》の力の|象徴《しょうちょう》である錫杖をお借りするのです」  |睡《すい》|蓮《れん》が、事務的に説明する。  さすがに、情報収集専門の|式《しき》|神《がみ》だ。  睡蓮は、いつの|間《ま》にか、京介の隣にいる。  数時間前に、|弁《べん》|天《てん》|橋《ばし》の上で、智が京介を|援《えん》|護《ご》しろ、と命令したためだ。  返事が返ってくるとは思わなかった京介は、少し驚いた。 「なんだよ、その……ふくーけんじゃくかんのんって……?」 「京介様も、修学旅行などで、|縄《なわ》を持っている|仏《ぶつ》|像《ぞう》をご覧になったことがあるでしょう。あの縄が|羂索《けんじゃく》です。|不動明王《ふどうみょうおう》の持つ縄と同じものです。羂索は、|俗《ぞく》|人《じん》を一人残らず救いあげる、|仏《ほとけ》の|広《こう》|大《だい》|無《む》|辺《へん》の|慈《じ》|悲《ひ》の心を象徴します。不空羂索の名には、羂索の意味を〈|空《むな》〉しくしない、という意味があります。つまり、不空羂索観音というのは、慈悲の心で|万《ばん》|物《ぶつ》をお救いくださる菩薩のことです」 「……よくわかんねえ。けど、なら、錫杖じゃなくて、その羂索ってやつを借りればいいじゃんかよ。そっちのほうが強そうだ」 「羂索を使うには、|上主《じょうしゅ》の|霊力《れいりょく》がまだ|足《た》りません。現在のところは、錫杖で精いっぱいでしょう」 「そういうもんか……?」  京介は、頭を|抱《かか》えた。 「わかんねえ……ウンチクは|苦《にが》|手《て》だ」  |睡《すい》|蓮《れん》は、一瞬、|京介《きょうすけ》を|哀《あわ》れむような目をする。  京介は、|式《しき》|神《がみ》にバカにされたような気がして、ムカッとした。  |赤《あか》|沼《ぬま》が、ゆっくりと|智《さとる》を振りかえった。  |勝《かつ》|利《とし》は、すでに|満《まん》|身《しん》|創《そう》|痍《い》。  赤沼の前に倒れこんだまま、動けない。  満月が、岩場を|淡《あわ》く照らしだしていた。 〈いくぢ〉も、|稚《ち》|児《ご》|ヶ《が》|淵《ふち》に体当たりした格好のまま、|硬直《こうちょく》している。 〈いくぢ〉は、影を縫いとめられたのだ。 「来い、智。この稚児ヶ淵が、おまえの墓場だ」  赤沼が微笑する。  |酷《こく》|薄《はく》な|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》の顔で。  その手のなかには、〈|影《かげ》|斬《き》り〉がある。黒い|太刀《たち》の形だ。 「赤沼さん、オレはあんたを殺せない。あんたを傷つけたくないんだ」  智は、|錫杖《しゃくじょう》を左手に十字に交差させて構えた。  |凜《りん》とした|瞳《ひとみ》には、深い悲しみの色がある。  全身に燃えたつ青い|霊《れい》|光《こう》。  |記《き》|憶《おく》がないというのが、|嘘《うそ》のような姿だ。 「そこをどいてください。オレは、〈いくぢ〉を助けに行かなきゃならない」  |赤《あか》|沼《ぬま》は、|智《さとる》の言葉と表情にカッとなったようだ。 「おまえのような|奴《やつ》は、生かしちゃおけないんだよ……智。おまえは、いるだけで弱い人間たちを傷つける。おまえが|綺《き》|麗《れい》なら綺麗なだけ、強ければ強いだけ……おまえは、絶対的な力で見せつける。おまえ以外の人間は、みんな汚いウジ虫なんだとな」 「赤沼さん……何言ってるんだ。あんたの言葉、メチャクチャだ!」  智は、|眉《まゆ》をよせた。  赤沼の言葉に、混乱している。 「オレは、他人が汚いウジ虫だなんて思ったことない!」 「黙れよ、智」  赤沼の目が、|怒《いか》りに大きく見開かれた。  吹きだす|憎《ぞう》|悪《お》と|怨《おん》|念《ねん》。 「おまえは、いつも、俺のような奴は虫ケラだと教えてくれる! 頼みもしないのにな!」  智は、赤沼の言葉に|愕《がく》|然《ぜん》とした。  思わず、|錫杖《しゃくじょう》を持つ手の力がぬけた。  伝わってくる赤沼の心が、泣いている。 (赤沼さん、本当に傷ついてる……でも、どうして?  オレのせいか……まさか?) 「さとる……」  |京介《きょうすけ》は、|茫《ぼう》|然《ぜん》としている智をかばうように立った。  |天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》の金属片を引き抜いた。  頭上に|掲《かか》げる。 「|顕《けん》|現《げん》せよ、|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》・天之尾羽張!」  |弾《はじ》ける純白の光。 「ダメだ、京介! 天之尾羽張は!」 「さとる、赤沼はおまえを殺そうとしてるんだぞ。殺さなきゃ、殺されるんだ。おまえの言葉なんか、赤沼には伝わらない! 同情で死んでやる気か!」  赤沼は、京介の言葉にクスッと笑った。 「その男の言うとおりだぞ、智。よけいな|情《なさ》けは捨てて、俺と戦え。もっとも、この島の黒い|地《ち》|霊《れい》|気《き》のなかでは、おまえには不利だがな」 「オレは、人は殺さない」  智は、静かに頭をもたげ、赤沼を見つめた。  赤沼の|魂《たましい》の奥底まで、つらぬきとおすような|瞳《ひとみ》。  赤沼は、わずかにたじろいだ。 「オレは、殺された人間の苦痛を知っているから、できない。あんな寒さは、誰にも味わわせない」 「ならば、|智《さとる》、おまえが死ね!」  |赤《あか》|沼《ぬま》の手は、言葉より先に動いた。  タタタタタッ!  数十本の黒い針が、智の影にむかって打ちこまれる。  同時に、|京介《きょうすけ》が智の体を突き飛ばす。 「どけ、さとる!」 「京介っ!」  智は、岩場に|膝《ひざ》をついて、京介を見あげる。  黒い針は、智のすぐ後ろに突き立っていた。 「さとるには、指一本触れさせねーぜ」  京介は、腰を落とし、油断なく|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を構えた。  いつでも、次の攻撃にうつれる体勢だ。  京介の後ろから、智が赤沼に呼びかけた。 「赤沼さん、教えてほしい。なんで、あんたはオレを殺したがるんだ。あんたの言葉は筋が通らないよ。だって、あんたは、そんなに強いじゃないか。強い|霊《れい》|気《き》を持ってる。あんたは、超一流の|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》なんでしょ。それ以上、どんな力が欲しいの。いったい何を望んでるのさ。教えて、赤沼さん」 「俺がおまえを殺すのは、|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》|様《さま》のご命令だからだ」  赤沼は、智の目を|睨《にら》みつけた。  智を殺したいと願った本当の理由は、教えてやらない。 (智を殺して……俺の夢にも|終止符《しゅうしふ》を打つんだ。  胸が苦しくなるから、光の夢なんか、もうみない……) 「緋奈子が……オレを?」  智は、驚いたようだった。|凜《りん》とした|瞳《ひとみ》が、大きく見開かれる。 「だから、死んでもらう」  赤沼は、手をあげて合図した。  もう、これ以上、智と話すのは耐えられない。  |式《しき》|神《がみ》の|鈴《すず》|蘭《らん》が、京介の背後に出現する。  黒い|刃《やいば》を|閃《ひらめ》かせ、京介の首をはねようとする。 「京介!」  智が悲鳴をあげる。  京介は、あやういところで岩場に身を投げだした。  ガツッ! と音をたてて、黒い|刃《やいば》が、|京介《きょうすけ》の|頬《ほお》すれすれを|斬《き》った。  次の|式《しき》|神《がみ》の一撃は、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》で受けとめる。  だが、その時。  タタタタタタッ!  黒い針が、京介の影にむかって打ちこまれた。  針を使ったのは、|赤《あか》|沼《ぬま》だ。|冷《れい》|酷《こく》な笑いを浮かべている。 「う……うう……っ!」 「京介っ!」  京介は、うめき声をもらした。  体が、|硬直《こうちょく》したまま動かない。  式神が、京介の上に|屈《かが》みこんだ。手に、黒い刃を持っている。 (殺される……!)  京介は、生まれて初めて、本当の死の恐怖を感じた。  ガツッ!  式神の刃が、岩場に突き刺さる。京介の顔すれすれだ。  京介は、震えながら、横目で黒い刃を見た。  わざとはずしている。 「さて、順番に|血《ち》|祭《まつ》りにあげてやろう。最初は、俺に|逆《さか》らった〈いくぢ〉からだ。次が、三流|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》、その次がおまえの大事な|相《あい》|棒《ぼう》・|鳴《なる》|海《み》京介。最後におまえだ……|智《さとる》」  赤沼は、〈影斬り〉をゆっくりと頭上に|掲《かか》げた。 「|鈴《すず》|蘭《らん》、〈いくぢ〉の影を斬れ」  冷酷な命令。  まず、〈いくぢ〉の影と|霊《れい》|気《き》を吸いとろうというのだ。 「は……|英《えい》|司《じ》|様《さま》」  鈴蘭は、「命拾いしましたね……」と言いながら、京介を冷たく|一《いち》|瞥《べつ》し、身を起こした。  式神は、細い手首をかえす。  すると、また別の〈影斬り〉が出現した。  この|呪《じゅ》|具《ぐ》は、複数に分裂させて使える、という特徴がある。 「動くなよ、智。動けば、次は、鳴海京介の首が飛ぶぞ」  智は、|錫杖《しゃくじょう》を握りしめた。赤沼を見つめる目は、言い知れぬ苦痛に|曇《くも》っていた。  息づまる数呼吸の沈黙。  鈴蘭が、〈いくぢ〉にむかって、黒い|太刀《たち》を振り降ろした。  キュオオオオオオーン!  悲しげな|妖《よう》|怪《かい》の鳴き声。  |赤《あか》|沼《ぬま》の〈|影《かげ》|斬《き》り〉が、緑に輝きはじめた。 〈いくぢ〉の影と|霊《れい》|気《き》が、〈影斬り〉のなかに吸いこまれていく。 「俺は強くなる! もっと強くなる!」  赤沼は、狂ったように声をあげて笑っていた。  圧倒的な力が、赤沼の身内に流れこんでくる。  影を斬られた〈いくぢ〉の苦痛が、|智《さとる》を襲う。  ——|怖《こわ》い……怖い……苦しい……!  ——助けて……! 「う……!」  智は、|錫杖《しゃくじょう》にすがったまま、|膝《ひざ》をついた。  心臓が引きちぎられそうだ。  赤沼の|哄笑《こうしょう》が、|稚《ち》|児《ご》|ヶ《が》|淵《ふち》に響きわたった。 「俺は誰よりも強くなる! ざまあみやがれ!」  その時だった。     第七章 |幾《いく》|千《せん》|億《おく》の|魂《たましい》  ゴウゴウと海が鳴った。  |激《げき》|怒《ど》した〈いくぢ〉の群れが、押しよせてくる。  |海《うみ》|蛇《へび》のような頭を振りたてて、長い体を弓なりにして。  キュオオオーン!  キュオオオーン! 〈いくぢ〉の鳴き声が、|岸《がん》|壁《ぺき》に|木《こ》|霊《だま》した。  赤沼の|哄笑《こうしょう》が、ピタリと止まった。  不自然な沈黙がある。  |傲《ごう》|慢《まん》な顔に、恐怖の色が浮かんだ。  吸いこんだ〈いくぢ〉の霊気を、|制《せい》|御《ぎょ》できない。 (暴走する……!) 「う……ぐうっ……!」  |赤《あか》|沼《ぬま》は胸を|鷲《わし》づかみにし、前のめりに倒れこんだ。  手から、緑に輝く〈|影《かげ》|斬《き》り〉が落ちた。  それでも、|不《ふ》|吉《きつ》な緑の光は、赤沼の全身をおおっている。  |智《さとる》は、薄く目を開いた。  伝わってくる〈いくぢ〉の苦痛と恐怖に、今にも意識が遠くなりそうだ。  赤沼の体を包む緑の光は、|蛇《へび》のようにのたうち、天にむかってのびていく。  異様な光景だった。 (やべえ……)  |京介《きょうすけ》は、右手のなかの|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》に意識を集中した。 「ぐ……ぐっ……!」  すでに、長時間、この|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》を使っている。  これ以上、天之尾羽張に|霊力《れいりょく》を流しこめば、どうなるか——。  だが、このままでは、京介自身も、智も、|勝《かつ》|利《とし》も、無事に帰れるかどうかわからない。  京介は、必死に恐怖と戦った。  耳の奥に、勝利の声が|木《こ》|霊《だま》する。  ——このまま天之尾羽張使いつづければ、|鳴《なる》|海《み》京介、あんた、普通の人間やなくなるで。  ——霊力を|消耗《しょうもう》して、急激に|衰弱《すいじゃく》して……一日に|他人《ひ と》の一年分が過ぎてくようになる。  ——ほっとけば、鳴海京介、あんた、あと二か月生きられへんわ。 (は……二か月の命かよ……)  京介は、満月の輝く夜空に目を注いだ。  夏の星座が見える。  |琴《こと》|座《ざ》のベガ、|鷲《わし》|座《ざ》のアルタイル、|白鳥座《はくちょうざ》のデネブ。  南天の低いあたりに赤く光るのは、|蠍座《さそりざ》のアンタレスだ。  思いがけず、京介は、|幼《おさな》い頃のことを思い出した。  京介を肩に抱きあげて、一つ一つ星の名前を教えてくれた人のことを。  父の兄だという物静かな|天《てん》|文《もん》|学《がく》|者《しゃ》。  鳴海|一《かず》|馬《ま》。  京介の|遺伝子上《いでんしじょう》の父である。  一馬|伯父《お じ》は、京介の母・|貴《たか》|子《こ》を愛し、将来を|誓《ちか》いあっていたという。  だが、世渡り|下手《べ た》で、|不《ぶ》|器《き》|用《よう》だった一馬は、実の弟・|誠《せい》|二《じ》に貴子を奪われた。  |家《か》|督《とく》を捨てて、学問を選んだ|貧《びん》|乏《ぼう》な天文学者・一馬と、造船会社の若き社長・誠二。  勝負は、最初から見えていたのだ。  貴子は、一馬伯父の愛よりも、誠二の財産を選んだ。  だが、|皮《ひ》|肉《にく》なことに、誠二には|子《こ》|種《だね》がなかった。  |貴《たか》|子《こ》は、別れたはずの|一《かず》|馬《ま》|伯父《お じ》の腕を求めた。  |京介《きょうすけ》が生まれたのは、一年後のことだ。  |鳴《なる》|海《み》|誠《せい》|二《じ》は、京介がわが子ではないと知りつつ、認知した。  美しい妻の不義を|黙《もく》|認《にん》したのだ。  そして、一馬伯父は、六年後、旅先の|軽《かる》|井《い》|沢《ざわ》で自殺した。  |遺《い》|書《しょ》はなかった。  一馬伯父は、ひそかに、貴子と誠二の離婚を期待していたのかもしれない。  貴子のあと、誰一人として女性は愛さず、最愛の人の帰りを待った。  だが、貴子は戻らず、一馬伯父は絶望して死んだ。  京介がそれを知ったのは、中学二年生の時である。  何もかもが|崩《くず》れるような気がした。  京介は、誰も信じられなくなった。  母の|不《ふ》|貞《てい》にショックを受け、その身勝手な生きざまに反発し——。  実の息子でないと知りながら、|笑《え》|顔《がお》をむけてくる父が|怖《こわ》かった。  だから、高校入学を機に家を出た。  |欺《ぎ》|瞞《まん》に満ちたあの家で暮らしたくなかった。  もう、誰かを信じて裏切られるのが|嫌《いや》だったのだ。  |智《さとる》と出会うまで——京介の心は|凍《い》てついていた。  寒くて、一人で、誰かの手を痛いほど求めながら。  智も京介も、たぶん、|寂《さび》しかったから、互いを必要としたのだ。 「う……あ……っ……!」  智のうめき声が、聞こえてくる。 (さとる……苦しんでるのか。  さとる……)  京介は、カッと目を見開いた。 (おまえのためなら死ねる)  |霊《れい》|気《き》が、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》に流れこんでいく。  全身が火のように熱くなった。 「うおおおおおおおおーっ!」  京介は、〈|影《かげ》|斬《き》り〉の針を|弾《はじ》き飛ばし、立ちあがった。  天之尾羽張は、太陽のように|眩《まぶ》しく輝いている。 「|赤《あか》|沼《ぬま》|英《えい》|司《じ》ぃ……てめーは許さんっ!」  京介は、走りだした。  純白の光の|剣《つるぎ》を振りかぶり、赤沼にむかって斬りかかる。  |赤《あか》|沼《ぬま》は、全身、緑の光におおわれて立っていた。 「|京介《きょうすけ》っ! ダメだっ!」  |智《さとる》の悲鳴のような声が聞こえた。  だが、京介はためらわなかった。 (これで|寿命《じゅみょう》が縮んでも……かまわねえ。  さとるを守るためなら)  緑の光に|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》の先端が触れた。  バチバチバチバチッ!  緑の電流のようなものが、京介の腕を駆けあがる。  |激《げき》|痛《つう》が走った。 「うわあああああーっ!」 「あかん、ナルミちゃん!」  |勝《かつ》|利《とし》の制止の声が、聞こえたような気がした。 「力を貸せ、天之尾羽張っ! 俺の寿命でよけりゃ、くれてやるっ!」  天之尾羽張が、グググッと京介の手のなかで震えた。  京介の全身に、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》な力がみなぎってきた。 「|破邪誅伐《はじゃちゅうばつ》ーっ!」  |渾《こん》|身《しん》の力で、天之尾羽張を赤沼に|叩《たた》きつける。  瞬間、緑の光が爆発した。 「うわあああああーっ!」  京介の体は、緑の光に|弾《はじ》き飛ばされた。  全身が岩場に|激《げき》|突《とつ》した。  勢いあまって、そのまま数メートル、岩場を転がる。  ズズズズズッ! と、天之尾羽張が岩をえぐった。 「う……うっ……!」  京介の指から、天之尾羽張が落ちた。  純白の光が消えた。天之尾羽張は、ただの金属片に戻る。 「京介……!」  智の顔から血の|気《け》が引いた。 「|嘘《うそ》だ……こんなの……!」  赤沼の全身を包む緑の光は、無数の|蛇《へび》のようにうねり、四方へのびていく。  メデューサの髪を思わせる|邪《じゃ》|悪《あく》な|霊《れい》|光《こう》。  智の表情が、変わった。  頼りなげな表情だったのが、別人のように|傲《ごう》|慢《まん》できつい表情になる。  |記《き》|憶《おく》|喪《そう》|失《しつ》以前の|鷹塔智《たかとうさとる》が、そこにいた。 「許さない……!」  智の全身を包む|霊《れい》|気《き》が、どんどん輝きを増していく。  記憶喪失の|陰陽師《おんみょうじ》は、|錫杖《しゃくじょう》を高く|掲《かか》げた。  そのまま、足もとの岩場にドンと突きたてる。  澄んだ金属音が、|稚《ち》|児《ご》|ヶ《が》|淵《ふち》に響きわたった。  満月の光のなかで、智は静かに天を|仰《あお》ぐ。 「オン・ソラソバ・テイエイ・ソワカ!」  この|江《え》ノ|島《しま》を|統《す》べる|弁《べん》|財《ざい》|天《てん》の|真《しん》|言《ごん》。  押しよせてくる〈いくぢ〉たちが、|戸《と》|惑《まど》ったように動きを止めた。  |勝《かつ》|利《とし》は、|茫《ぼう》|然《ぜん》として見つめていた。 「|嘘《うそ》や……」  智の霊気が、銀色に変わる。  カリスマに満ちた天才陰陽師が、そこにいた。  |凜《りん》とした|瞳《ひとみ》には、|哀《あわ》れみとも|嘆《なげ》きともつかない色がある。  ひどく大人びた|高《こう》|貴《き》な表情。  智の瞳が、|赤《あか》|沼《ぬま》と〈いくぢ〉の群れにむけられた。  この瞬間の智は、すべてを思い出したようだった。  赤沼と過ごした四年間のことも、|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》に|封《ふう》|印《いん》された記憶のことも、九州の|邪《じゃ》|神《しん》の|社《やしろ》と|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》のことも。  天才陰陽師は、最後に|京介《きょうすけ》と勝利を見つめ、やわらかく|微《ほほ》|笑《え》んだ。  |幻《まぼろし》のような|美《び》|貌《ぼう》。 「天と地と、見えるもの、見えざるものすべてになり代わり……赤沼|英《えい》|司《じ》、あなたを|誅伐《ちゅうばつ》します」  誰一人|逆《さか》らうことを許さない宣告。 「|高《たか》|天《まの》|原《はら》に|神《かむ》|留《づま》り|坐《ま》す |神漏岐神漏美之命《かむろぎかむろみのみこと》|以《も》ちて |皇御祖神伊邪那岐命《すめみおやかむいざなぎのみこと》 |筑《つく》|紫《し》|日《ひ》|向《むか》の|橘《たちばな》の|小戸之阿波岐原《おどのあわぎはら》に|身《み》|滌《そぎ》|祓《はら》ひ|給《たま》う時に|生《あれ》|坐《ませ》る……」  智の|唇《くちびる》から、|祭《さい》|文《もん》が流れだす。  |慈《いつく》しむような|気《け》|配《はい》が、その場のすべてのものを包みこんだ。  暴走しかけた赤沼の霊気が、|鎮《しず》まっていく。  赤沼の頭上でのたうつ緑の光が、|跡《あと》|形《かた》もなく消滅した。 〈いくぢ〉の群れも、|呪《じゅ》|縛《ばく》されたように、智の声に耳を澄ましていた。 「……|八百万之神等共《やおよろずのかみたちとも》に|天《あめ》の|斑《ふち》|駒《こま》の|耳《みみ》|振《ふ》り|立《た》て|聞《きこ》し|召《め》せと|畏《かしこ》み|畏《かしこ》みももうす」  |祭《さい》|文《もん》が終わると、|智《さとる》はパン! と手を打つ。 「|浄魔《じょうま》!」  同時に、鳥のはばたくような音と、|芳《かぐわ》しい風が巻きおこった。  |稚《ち》|児《ご》|ヶ《が》|淵《ふち》によどんだ黒い|霊《れい》|気《き》が、瞬時に消え失せる。 「なんちゅう力や……」  |勝《かつ》|利《とし》は、思わず口をポカンと開けて、智を見つめた。  同じJOA所属の身には、智とのレベルの違いが痛いほどわかる。  ふいに、|赤《あか》|沼《ぬま》の体から、|幾《いく》|千《せん》もの黒い影が吹きだした。  影は、空中でキラリと光って消滅する。  過去に、赤沼が吸いこんだ影の数々が、|浄化《じょうか》され、天に|還《かえ》っていくのだ。  最後に、とてつもなく長い影が、赤沼の体からぬけでた。 〈いくぢ〉の影だ。  赤沼が、|精《せい》|根《こん》|尽《つ》き果てたように、意識を失って倒れ|伏《ふ》す。  影は、どこへ行っていいのかわからないように、頭を振りたて、|右《う》|往《おう》|左《さ》|往《おう》した。  智が、優しく|微《ほほ》|笑《え》んで、岩場にある体を指さす。 〈いくぢ〉の影は、うれしそうに智の足もとにすりよった。  ありがとう、というように。 「もう、人間に|操《あやつ》られないように気をつけて」  智は、〈いくぢ〉の影の頭のあたりに手をさしのべる。  智の影と〈いくぢ〉の影が、触れあった。 「赤沼さんのこと、許して……とは言いません。でも、オレが生きているかぎり、もう赤沼さんにはこんな|真《ま》|似《ね》はさせない。オレの命にかけて……だから、心配しないでください」 〈いくぢ〉の影は、智の影にそっと頭を押しあてる。 「オレは、この国を守りたい。この国に|棲《す》まう幾千億の|魂《たましい》が、人間も、|妖《よう》|怪《かい》も含めて、みな|安《やす》らかに|在《あ》れるよう……。誰も痛みに泣いたりさせたくない。いつか、オレの胸に呼びかけてくる悲しい心がなくなるまで……」  智の戦いは、たぶん、一生終わらないだろう。  いや、それどころか、何度、|輪廻転生《りんねてんしょう》をくりかえして、この世に現れたとしても。  人がいるかぎり、地上から悲しみも痛みも消えない。  この世の悲しみを消すことなど、誰にもできない。  ナザレのイエスにも、カピラ国のシッダールタにもできなかったことだ。  わかっていたが、勝利は何も言わなかった。  勝利は、なぜ、智が千年に一人の天才|陰陽師《おんみょうじ》と言われたのか、理解したような気がしていた。 (わいら|凡《ぼん》|人《じん》とは|魂《たましい》が違う……。  めざすものが最初っから違うんや……)  そして、なぜ、|赤《あか》|沼《ぬま》があれほど|智《さとる》に|執着《しゅうちゃく》し、|憎《にく》んだのかも。  智は、この国の光の|象徴《しょうちょう》なのだ。  |勝《かつ》|利《とし》は、ブルッと身震いした。  ゆっくりと手をあげて、左手首のプロミスリングに触れる。  |潮《しお》|時《どき》かもしれない、と思った。  智が、JOAの|呪《じゅ》|縛《ばく》を振り切る勇気をくれた。 (わいも、|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》|廃業《はいぎょう》やな。  |鷹《たか》|塔《とう》智に従って、JOAと戦う時がきた……) 〈いくぢ〉の影は、岩場を|這《は》って、自分の体に飛びこんでいった。  仲間の〈いくぢ〉たちが、|波《なみ》|飛沫《し ぶ き》をあげて動きだした。  影を取り戻した〈いくぢ〉に近より、長い胴体をからめて|挨《あい》|拶《さつ》しはじめる。  情愛のこもった|仕《し》|草《ぐさ》だ。  それは、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》な光景だった。  満月の光の下、たわむれる海の|魔《ま》|物《もの》たち。  細長い体の周囲で、銀の波が|砕《くだ》ける。  そして、それを|微《ほほ》|笑《え》みながら見守る白い姿の|陰陽師《おんみょうじ》。  勝利は、この光景を|生涯《しょうがい》忘れないだろうと思った。  やがて、〈いくぢ〉たちは、|稚《ち》|児《ご》|ヶ《が》|淵《ふち》に背をむけ、外海へ泳ぎ去っていった。      *    *  月は、|冴《さ》えわたっていた。 「さとる……」  |京介《きょうすけ》の腕のなかには、智がいる。  極度の|霊力《れいりょく》の|消耗《しょうもう》で、半分くらいしか意識がない。  |江《え》ノ|島《しま》第一|洞《どう》|窟《くつ》のなかだった。  意識不明の赤沼は、|睡《すい》|蓮《れん》の見張りをつけて、まだ稚児ヶ淵に転がしてある。  勝利は、電話をかけに行った。  海はまだ荒れている。橋も壊れたままだ。クルーザーも壊れかけている。  この状態では、江ノ島に泊まるしかなかった。  だが、JOAが島の住人を島外へ避難させている。民宿も、無人で休業中だ。  勝利は、父親の入院している病院に連絡をとりがてら、途中の民宿を|襲撃《しゅうげき》して、|毛《もう》|布《ふ》や食料を手に入れることを提案した。 「言い出しっぺがやれば」 とは、|京介《きょうすけ》の返事だった。  |勝《かつ》|利《とし》は、ニヤニヤ笑って、|不《ぶ》|気《き》|味《み》なくらい素直に引き受けた。  あまりに素直なので、京介は、少し|勘《かん》|繰《ぐ》ってしまう。 (何か|企《たく》らんでるんじゃねーのか……?)  実は、勝利は、何も考えていない。  だが、そこまでは京介にもわからなかった。  |智《さとる》を抱きしめたまま、なんとなく落ち着かないでいる。  それなら、離れていればよさそうなものだが、智のそばにいると、抱きしめずにはいられない。  テディベアを離さない子供と同じだ。  ただし、このテディベアは生きて動く。 「ん……京介……」  智が、京介の肩に頭をのせる。甘えるような|仕《し》|草《ぐさ》だ。  夜もだいぶ|更《ふ》けた。  京介は、周囲をキョロキョロ見まわした。  誰もいない。  そっと智の|額《ひたい》に|唇《くちびる》をよせる。 「約束破ってごめん……」  |天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》は使わないと約束したのに。  智は、顔をあげ、京介をじっと見つめた。  悲しげな|瞳《ひとみ》。  まるで、今の京介の言葉がわかったようだ。 「え……さとる……?」 「京介、遠くへ行っちゃ|嫌《いや》だ……オレを置いていかないで……」  正気だったら、けっして智が口にしない言葉。  京介の胸が、|切《せつ》なく|疼《うず》く。 「さとる……おまえ……」 「どこへも行かないで……」  頼りなげな瞳。  |闇《やみ》のなかに一人でとり残された子供の目だ。  京介は、智を|膝《ひざ》の上に|抱《かか》えあげた。  いつもなら、お互いに恥ずかしくてできない。  だが、今の|智《さとる》なら中身は子供と同じだ。  智は、|京介《きょうすけ》の首に両腕を巻きつける。全身ですがりつく。 「どこへも行かないで……京介……」 「行かないよ、さとる。おまえを置いていったりしない。約束する。|誓《ちか》うよ」 「京介……」  智の目から、涙がこぼれ落ちる。|宝《ほう》|石《せき》のような涙。  泣き顔も|綺《き》|麗《れい》だ。  京介は、智の首筋をつかんで、引きよせた。  智は、苦しげに目を閉じている。 「さとる……」  |想《おも》いを伝えたくて、|唇《くちびる》をあわせる。 「おまえしかいないんだよ、俺には……」  男同士でこんなことをして変だ、という気持ちもないわけじゃない。  でも、どうしようもなかったのだ、智と京介のあいだでは。  伝えたいのに、言葉では伝わらない。  どんなに大切に思っているか。  だから、触れるのだ。  それが、社会的に間違っているのだとしても、|世《せ》|間《けん》から後ろ指さされるのだとしても、想いは止められない。      *    *  翌朝は、晴れだった。  |洞《どう》|窟《くつ》の|天井《てんじょう》に、明るい日の光が|射《さ》しこんでいた。  |猛《もう》|威《い》をふるった台風は、夜のうちに通りすぎたようだ。  空は晴れていたが、風はまだ強かった。  遅い朝食をすませた智たちは、|稚《ち》|児《ご》|ヶ《が》|淵《ふち》に降りたった。  ちなみに、智の朝食は、京介が朝イチで民宿の冷蔵庫から盗んできた氷だ。  もちろん、食後の熱いカフェオレも忘れていない。  |勝《かつ》|利《とし》は、京介の|献《けん》|身《しん》ぶりに、思わず後ずさりしている。 「あんたら、やっぱり変やで」  それに対する京介の返答は、こうだった。 「これは、俺のだから……」  俺が|面《めん》|倒《どう》みるんだよ、というわけだ。  |勝《かつ》|利《とし》が、さらにのけぞったのは言うまでもない。  |智《さとる》は、|昨夜《ゆ う べ》の|京介《きょうすけ》との会話は、覚えていないようだった。  あるいは、忘れたふりをしているだけかもしれないが。  |稚《ち》|児《ご》|ヶ《が》|淵《ふち》には、|睡《すい》|蓮《れん》に見張られて、|赤《あか》|沼《ぬま》がいた。 「俺を殺せ、智」  赤沼が、低く言う。  強い風が、稚児ヶ淵に吹きつけていた。  波が岩場に白く|砕《くだ》けている。  智と京介は、顔を見あわせた。  意識が戻った赤沼は、もう戦おうとはしなかった。 「|呪《じゅ》|殺《さつ》に失敗したのが、|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》|様《さま》にわかれば、俺の命はない。どうせなくなる命なら、|楽《らく》に殺してもらったほうがいい」  打ちひしがれた呪殺者の目のなかに、|哀《あい》|願《がん》するような光がある。 「頼む、智」  赤沼は、稚児ヶ淵に座りこみ、智を見あげた。  今にも両手をつきそうな姿だ。 「オレには、できません」  智は、顔をそむけた。  京介も、ただ無言だった。  赤沼を|断《だん》|罪《ざい》する権利は、たぶん誰にもない。 「智、殺してくれ」 「できません、赤沼さん。……オレだって、一歩間違えば、呪殺者になっていたかもしれないんだ」  |霊力《れいりょく》そのものには、善も悪もない。  それは、ただ純粋な力である。  それが光と呼ばれ、あるいは|闇《やみ》と呼ばれるのは、すべて、それを使う者の心しだい。  超一流の|陰陽師《おんみょうじ》である|鷹《たか》|塔《とう》智も、裏をかえせば、超一流の呪殺者になりうる。  力のベクトルを、ほんの少し変えてやればいいだけの話なのだ。  事実、陰陽師が、呪殺者になった例など、いくらでもある。  というより、陰陽師と呪殺者が区別されるようになったのは、近代以降の話なのだ。中世には、陰陽師は公然と、|呪《じゅ》|咀《そ》、呪殺を行っていた。  |堕《お》ちることは、簡単だ。  智が、人を殺すことを激しく拒絶しつづけるのも、無意識にそれを知ればこそだろう。 「オレは……できない」  苦しげに|呟《つぶや》く|智《さとる》の肩に、|勝《かつ》|利《とし》の手がかかる。 「死なせたれ、|鷹《たか》|塔《とう》智」 「勝利君……」  智を見つめる勝利の目は、厳しかった。 「力を失った|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》は、口を|封《ふう》じられるんや。JOAは、呪殺を|公《おおやけ》には認めとらん。JOAが一番|警《けい》|戒《かい》しとるんは、呪殺の生き証人の、わいら呪殺者なんや。そやから、家族があるもんは、家族を|人《ひと》|質《じち》にとられる。家族のないもんは、恋人や友達を人質にとられる。いっぺん呪殺に手ぇ染めたら、一生、呪殺者のまんまや。足ぬけしようとしたら、人質が殺される。人質の次は、呪殺者本人や……|酷《むご》いもんやで」  勝利は、言葉をきって、朝の|相模《さ が み》|湾《わん》に目を注ぐ。  何かを思い出したような、つらそうな表情だ。 「何人も知っとるわ。やめようとして、JOAに消されてった呪殺者たちな……」  ふいに、智の胸にストンと落ちるものがあった。 「まさか……勝利君……?」 「わいは、殺してへん、呪殺者の家族はな……JOAに命じられたかて、理屈こねて断ってきたわ」 「ううん、そういう意味じゃない。オレが|訊《き》きたいのは、勝利君も家族を人質にとられてるんじゃないかって……」 「そうや。……けど、同情はいらんで」  勝利は、|苦《にが》|々《にが》しく笑う。 「わいの|親《おや》|父《じ》は、呪殺しとうて呪殺しとったんと違う。たまたま力があって、わけもわからんうちにJOAに引きこまれて、あとは|泥《どろ》|沼《ぬま》やった。青春時代をずっと、人殺しさせられて暮らしてきた。それでも、親父は勇気があったんや。命がけで、JOAに|自《じ》|己《こ》|申《しん》|告《こく》しよって、|霊力《れいりょく》を|封《ふう》|印《いん》してもろた。一生、呪殺んことは口にせんと|誓《せい》|約《やく》してな。……けど、JOAは|嘘《うそ》つきや。|息《むす》|子《こ》のわいにも、親父と同じ力あると知ったら、|脅迫《きょうはく》してきよった」 「脅迫……?」 「そや。親父の命とおふくろの命が|惜《お》しかったら、呪殺者になれゆうてな。|陳《ちん》|腐《ぷ》な脅迫やなあ……。そやけど、わいは、|逆《さか》らえへんかった。たぶん、JOAは、わいに霊力が受け継がれるっちゅうこと知ってたんやな。親父を殺さんかったんは……人質にするためや」  |赤《あか》|沼《ぬま》が、まじまじと勝利の顔を|凝視《ぎょうし》する。  赤沼の目のなかには、まぎれもない共感の色があった。 「鷹塔センセ……いやさ、鷹塔智、殺してやってや。わいからも頼むわ。これは、なんも親父を半殺しにされたから、ゆうんやない。呪殺者の殺しは、|楽《らく》には死なせてくれへん。苦しませて殺すんが、半分仕事みたいなもんなんや。ましてや、|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》、ゆうたな……あのお人の殺しは|残虐《ざんぎゃく》やで」  |智《さとる》は、首を横に振った。 「無理なことを言わないでください。オレは、人は殺さない。人を殺すことに慣れたくない。そう決めたんです。たとえ、それがオレの命を|狙《ねら》ってきた相手でも」  シン……と沈黙がある。 「なら、わいが殺したるわ」  |勝《かつ》|利《とし》が、ズイと前に出た。  |軟《なん》|派《ぱ》なファニーフェイスが、今は別人のようだ。  その|瞳《ひとみ》のなかには、|酷《こく》|薄《はく》な光がある。 「ダメだ、勝利君!」  |京介《きょうすけ》が声をあげた。 「これ以上、人を殺すなよ、勝利君。な、自分でも|嫌《いや》だと思ってんだろ。|呪《じゅ》|殺《さつ》|依《い》|頼《らい》受けたわけでもねーのに、やめろよ。殺すな」 「どけ、ナルミちゃん!」  勝利は、|印《いん》を結ぶ。意識を集中しはじめた。 「勝利君、ダメです。オレが許さない」  智は、勝利と|赤《あか》|沼《ぬま》のあいだに割って入った。  赤沼を守るように、両手を広げて立つ。  一瞬、赤沼は息を|呑《の》んだ。 (智……!?)  智の清い|霊《れい》|気《き》が、|翼《つばさ》のように赤沼を包む。  赤沼を守るかのように。 「なんでだ……智、なんで……?」  赤沼が、苦しげなうめき声をあげる。  智は、肩ごしに赤沼を振りかえった。  |浄化《じょうか》の|眼《まな》|差《ざ》し。 「オレは、あんたにチャンスをあげたいんですよ」 「チャンス……?」 「あんなに苦しんで、悲しい思いしてたくせに……これで死んだら、あんた、|怨霊《おんりょう》か何かになって、オレにつきまとうに決まってる。オレはそんな|切《せつ》ないの、嫌なんですよ」 「智……俺を許す気か」 「許してほしいんでしょ」  智は、優しい|瞳《ひとみ》で|微《ほほ》|笑《え》んだ。 「それで、あんたは|楽《らく》になる。ね、そうですよね」  |赤《あか》|沼《ぬま》は、うつむいた。  クルリと智に背をむける。 「赤沼さん……?」 「|反《へ》|吐《ど》が出るほど善良だな、智……その性格が、いつか命とりになるぞ」  |憎《にく》|々《にく》しげな声。 「てめえ、身の|程《ほど》をわきまえろよ!」  |京介《きょうすけ》が、赤沼に|殴《なぐ》りかかろうとする。  その肩を智が押さえた。 「京介」  目で合図されて、京介が見ると、赤沼の|顎《あご》のあたりから、ポタッ……と|滴《したた》り落ちるものがある。  赤沼は、声を殺して泣いていた。 「あ……」 「ね、京介、|勝《かつ》|利《とし》|君《くん》」  智に目くばせされて、勝利は、|渋《しぶ》|々《しぶ》ながら|印《いん》を|解《と》いた。  京介も、|面《おも》|白《しろ》くない顔をしている。 「|赤《あか》|沼《ぬま》さん、あんたの|霊力《れいりょく》があれば、JOAから送られてくる|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》たちは、追いかえせるでしょ。|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》本人は、たぶん、わざわざあんたを殺しには来ないと思う。あと何年か、呪殺者に追いまわされるのは、大変かもしれないけれど……オレは、JOAも緋奈子も、いつまでもあのままにはしておかないから」  赤沼は、グシャグシャになったスーツの|袖《そで》|口《ぐち》で目をこする。  |智《さとる》に背をむけたままだ。  それでも、智の声には耳を傾けている。 「だから、オレと一緒に戦いませんか、赤沼さん。オレは何人でも仲間がほしい」  |京介《きょうすけ》と|勝《かつ》|利《とし》は、思わぬなりゆきに、言葉を失っている。 (え……さとる、マジか?) (|鷹《たか》|塔《とう》センセ、|冗談《じょうだん》やろ……)  長い沈黙が続いた。  やがて、赤沼が智にむきなおる。まだ少し目が赤い。  赤沼は、くすぐったいような、困った顔をしていた。 「智、悪いが、その提案は受けられない」 「赤沼さん……」 「俺は、おまえの命を|狙《ねら》った人間だし、そっちの二人にもひどいことをした。いくら、おまえが言ってくれても、俺たちが一緒に戦うのは無理がある」  京介と勝利は、うんうんとうなずいている。  智は、目を|伏《ふ》せた。 「そうですか……」  赤沼は、かすかに微笑した。 「もともと、俺は|一匹狼《いっぴきおおかみ》が|性《しょう》にあう人間なんだ。誰かとつるむのは、|苦《にが》|手《て》だ」  申し出はありがたいが、説得はきかないと、赤沼の顔に書いてある。  智は、小さくため息をついた。  赤沼は、てこでも動かない構えだ。 「俺も俺なりに、JOAと戦ってみる。だから、おまえたちもがんばるんだな」  赤沼は、ポンと智の肩を|叩《たた》いた。そのまま、背をむけて去っていく。 「あ……赤沼さん」  追いかけようとする智の腕を、京介がつかんだ。 「さとる」 「京介……オレ……」  京介は、首を横に振ってみせる。 「わかってやれよ」 「|京介《きょうすけ》……」  京介は、包みこむように優しく微笑した。 「これでいいんだよ、さとる」  京介は、|智《さとる》を引きよせて、しっかりとつかまえる。 「な、いいことにしろよ」 「京介、暑苦しい……」  智は、いちおう|文《もん》|句《く》を言いながら、京介の胸に背をもたせかけた。  京介の両腕が、|慰《なぐさ》めるように智の体にまわる。  |赤《あか》|沼《ぬま》は、|稚《ち》|児《ご》|ヶ《が》|淵《ふち》から、|断《だん》|崖《がい》の上へ続く階段を上っていく。  遠ざかるスーツの背中。  空高く、数羽の|鳶《とんび》が舞っていた。  赤沼は、一度振りかえって、智を見つめた。  |切《せつ》ない|笑《え》みが、|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》の|頬《ほお》をよぎる。 「最初から、おまえの隣で戦えればよかったな……」  かすかな|呟《つぶや》きは、強い風に吹き飛ばされる。  智の耳には、けっして届かない言葉。  赤沼は、すべての|想《おも》いを|断《た》ち切るように、|踵《きびす》をかえした。  そして、それが、智たちが呪殺者・赤沼|英《えい》|司《じ》を見た最後だった。      *    *  東京|港区《みなとく》のJOAビル最上階——。 「赤沼が失敗したようだな、ピヨ子……いや、|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》」  白衣姿の|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》が、薄く笑う。  室内は、ひどく静かだった。  台風のあとの強い|陽《ひ》|射《ざ》しが、|床《ゆか》にブラインドの|縞《しま》を落とす。 「どうするつもりだ」 「決まっているでしょ。緋奈子の部下に、無能はいらないわ。しめしがつかないもの。赤沼には、今日中に死んでもらう」  |魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》の目は、氷のように冷えている。 「で、智はどうする気だ」 「心配無用よ、たっちゃん。もう手は打ってあるわ。……そうね。今度は、からめ手から攻めてみようかしら」  緋奈子は、|妖《よう》|艶《えん》な微笑を浮かべ、|従兄《い と こ》を振りかえった。 「|邪《じゃ》|魔《ま》はしないでね、|時《とき》|田《た》|忠《ただ》|弘《ひろ》。いくら、あなたが|智《さとる》ちゃんを好きでも」 「さてな……」  時田忠弘は、肩をすくめ、窓ぎわによった。  ブラインドの|隙《すき》|間《ま》から、ビルの下を|眺《なが》める。  熱気を含んだ大気の底を、せかせかと歩く人の群れ。  ひっきりなしに、車が走り過ぎていく。  台風が通り過ぎたくらいでは、何一つ変わらない。  このビルの外には、|平《へい》|凡《ぼん》な日常が続いている。  |心霊治療師《サイキック・ヒーラー》は、ため息をついた。  一つの|嵐《あらし》は過ぎた。  智は、夜を越えた。  だが——。 (終わらない夜もないが、沈まぬ|陽《ひ》もないのだぞ……智)  智が勝ちとった|平《へい》|穏《おん》な日常も、いつかは終わる。  |鳴海京介《なるみきょうすけ》が、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》によって変化しはじめる日がくる。  いつか、|破《は》|滅《めつ》の日が訪れる。  その時、智はどうするのだろう。 (おまえは、わたしのものになるしかないのだ、智。鳴海京介とおまえ自身の命を守りたければ……)  時田忠弘は、満足しきったように、低く笑いだした。 [#地から2字上げ]『銀の共鳴3』に続く     『銀の共鳴』における用語の説明 [#ここから1字下げ]  これらの用語は、『銀の共鳴』という作品世界のなかでのみ、通用するものです。  表現の都合上、本来の意味とは違った解釈をしていることを、ここでお断りしておきます。  |陰陽師《おんみょうじ》や|式《しき》|神《がみ》などについて、|詳《くわ》しくお知りになりたい方は、巻末に参考文献の一覧がありますので、そちらをご覧になってください。 [#ここで字下げ終わり] |天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》……|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》とも呼ばれる。普段は十五センチほどの金属片だが、|鳴海京介《なるみきょうすけ》の|霊《れい》|波《は》と意思に|感《かん》|応《のう》して、一メートルほどの純白の光の|刃《やいば》となって|顕《けん》|現《げん》する。 陰陽師……式神を|操《あやつ》り、|退《たい》|魔《ま》や|呪《じゅ》|咀《そ》、|除災招福《じょさいしょうふく》などを行う術者。 |傀儡《く ぐ つ》……術者の念を離れた場所に送る中継器の名称。|人《ひと》|形《がた》をしているのが普通。|赤《あか》|沼《ぬま》の場合は、三センチほどの|土《ど》|偶《ぐう》を傀儡として使った。 |祭《さい》|文《もん》……|祝詞《の り と》のこと。同じものでも、神官が|唱《とな》える時は「祝詞」、陰陽師が唱えると「祭文」になる。ここで使っている祭文は「|天《あま》|津《つ》祝詞」。 式神……陰陽師が呪術を行う際に操作する神霊。紙の呪符から作ったり、神や|鬼《おに》をとらえて|使《し》|役《えき》したりするなど、製造方法は多種多様。 |咒《じゅ》……ここでは|真《しん》|言《ごん》の別称として使っている。 |呪《じゅ》|禁《ごん》|師《じ》……JOA内部における呪殺者の正式名称。 呪殺……|霊能力《れいのうりょく》で人を|呪《のろ》い殺す行為。JOAでは、これを堅く禁じている。だが、呪殺を禁じるJOA自身が、一方では、心霊犯罪の被告の処罰と、活動資金調達のため、呪殺を|請《う》け|負《お》っているという|噂《うわさ》がある。 JOA……ジャパン・オカルティック・アソシエーション。財団法人日本神族学協会の略。日本国内|唯《ゆい》|一《いつ》の霊能力者の管理・教育機関で、超法規的存在である。多くの霊能力者を抱え、退魔報酬による|莫《ばく》|大《だい》な資金を|擁《よう》し、政財界やマスコミ、司法当局に大きな影響力を持っている。 |錫杖《しゃくじょう》……ここでは、|羂索《けんじゃく》と並んで、不空羂索|観《かん》|音《のん》の力の|象徴《しょうちょう》としている。陰陽師・|鷹塔智《たかとうさとる》は、|真《しん》|言《ごん》を|唱《とな》えて、一度、霊力を不空羂索観音に預け、代わりに|菩《ぼ》|薩《さつ》の力(慈悲)の象徴である錫杖を借り受ける。智の|破邪誅伐《はじゃちゅうばつ》は、「滅ぼすこと」ではなく、「救うこと」を目的としているからである。 不空羂索観音……七観音の一つ。正式には、不空羂索|観《かん》|世《ぜ》|音《おん》菩薩という。もともと、羂は網、索は綱を意味する。羂索は、網と綱で鳥や魚を捕らえるように、俗人を一人残らず救いあげる、|仏《ほとけ》の広大無辺の慈悲の心を象徴している。不空羂索の名には、羂索の意味を〈|空《むな》〉しくしない、という意味がある。 |火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》……イザナギとイザナミのあいだに生まれた火の神。実の母を焼き殺して誕生し、その直後に実の父に|斬《き》り殺された。日本最強の|邪《じゃ》|神《しん》である。その|怨《おん》|念《ねん》は、今も|浄化《じょうか》されていない。     あとがき  こんにちは。  この巻から手にとってくださった読者様には、はじめまして。 『銀の共鳴2』『水の|伏《ふく》|魔《ま》|殿《でん》』をお届けいたします。 『銀の共鳴2』とついていますが、このシリーズは、すべて一話完結形式です。1『|桜《さくら》の|降《ごう》|魔《ま》|陣《じん》』を読んでいなくても|大丈夫《だいじょうぶ》。  なんでかというと、この巻の第一章で、前の巻の内容をしっかり説明しているから、なのでした。一冊で二度楽しい。お得です。  まあ、|智《さとる》と|京介《きょうすけ》のなれそめをくわしくお知りになりたいかたは、1『桜の降魔陣』を読んでみてください。  続けて読んでくださっているかたには、1から2へと、智と京介の友情が深まっていく過程をお楽しみいただけるのではないかと思います。  今回、書きたかったのは、なんといっても、|嵐《あらし》の海。  夜で、暗くて、波の音だけが響きわたって。  そして、危険を承知のうえで嵐の海に船を出す少年たちの姿、なのです。  危険を恐れない|無《む》|謀《ぼう》さというのは、少年の特権かもしれない。  少女がやると痛々しくなるのでね。  すぐ後ろに救いの|騎《き》|士《し》|様《さま》がいる、と確信してる状態でなければ、女の子はそういう無茶はやっちゃいかん、と思います。  これを書くために、大学時代の友人と一泊二日で|江《え》ノ|島《しま》に泊まりこみました。  しかーし、安いからという理由だけで、東京から電話予約した宿は……「ご|休憩《きゅうけい》五千円」などと書かれた|怪《あや》しい場所でした。  ツインの部屋は、二部屋くらいしかなくて、あとはほとんど全部ダブル。  友人と顔を見あわせて、しばし笑ってしまいました。  しかも、宿泊した翌日、宿のレシートで確認したら、わたしら嫁入り前の娘二人は「ご休憩+ご延長」ということにされていたのです。  こ、これは、きっとJOAの|陰《いん》|謀《ぼう》に違いない。  ええと、お手紙くださった皆様、ありがとうございます。  読みかえすたびに、とても元気がでます。  おかしな言い方かもしれないんですが、きっと一生お会いすることはなくても、|岡《おか》|野《の》と気の合うかたは、日本国じゅう、どこにでもいるんだなあと思っています。たぶん、学校とか職場で直接お会いしてたら、仲よくなってたろうなという感じのお手紙、多いんですよ。  だから、こういうかたちでも知り合えたということは、本当にうれしいです。  やっぱり、|一《いち》|期《ご》|一《いち》|会《え》ってやつかもしれない。  この物語の舞台になった|江《え》ノ|島《しま》の|洞《どう》|窟《くつ》は、実在します。  五月の連休中に取材に行ってきました。|智《さとる》と|京介《きょうすけ》と同じく、|新宿《しんじゅく》から|小田急線《おだきゅうせん》です。  洞窟は、第一洞窟と第二洞窟があって、通路でつながってます。  入場料は、五百円。  第二洞窟の奥には、巨大な|竜《りゅう》の頭のはりぼてがあります。  人が通るとピカッと光って、|怪獣《かいじゅう》の鳴き声のような効果音が流れるのです。  言っちゃなんですが、ものすごく子供だまし。いろいろ資料も集めたりして、期待して行ったぶん、「ふざけるな」と怒ってしまいました。  しかし、期待を捨てて入った第一洞窟は……|神《しん》|秘《ぴ》|的《てき》でした。  洞窟の奥は二またになっていて、壁ぎわには、古びた|石《せき》|仏《ぶつ》や|蛇《へび》の像が陳列してあります。海からの風もそんな奥までは入ってこないので、空気は|生暖《なまあたた》かく、湿気を含んでいます。  片方の奥には、小さな石の|社《やしろ》。  もう片方の奥は真っ暗で、二重の木の|柵《さく》で|封《ふう》|鎖《さ》されています。観光客は、一つ目の柵までしか行けません。  伝説では、この洞窟は、|富《ふ》|士《じ》の樹海まで通じているといいます。  わたしの手に入れた資料が正しければ、あの|柵《さく》のむこうには、さらに|縦《たて》|穴《あな》があって、縦穴の底には小さな社があるはずなんですが。  伝説を裏づけるように、洞窟の奥からは冷たい風が吹いてきていました。  あとでパンフレットを見たら、これは、「伝説の富士からの風」を再現するという、観光局の演出だそうです。  でも、もしかしたら、演出というのが|嘘《うそ》で、本当に洞窟の奥から吹いてくる風かも……。  だって、隣の洞窟は|蒸《む》し暑いんですよ。それなのに、こちらの洞窟の奥だけ冷たい風が吹いてくるって、変だぞ、絶対。  そういう|妄《もう》|想《そう》……もとい、空想をかきたてるくらい、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》な|雰《ふん》|囲《い》|気《き》のある場所でした。  さすが、総工費十四億円をかけて、再開放しただけのことはあります。  最初は|江《え》ノ|島《しま》というのは、「ちょっと笑える一昔前の観光地」というくらいの場所だと思っていました。  しかし、調べれば調べるほど奥が深くて、どんどんあの島が好きになっていきます。  実際、|綺《き》|麗《れい》な島です。  土、日は観光客で|賑《にぎ》わっていますが、平日は人の数より|猫《ねこ》の数が多いのです。しかも美猫が多くて、|人《ひと》|馴《な》れしているので、|触《さわ》っても逃げません。猫好きには、|極《ごく》|楽《らく》極楽。  フレンドリーな数十匹の美猫の群れと遊んでみたいかたは、一度行ってごらんになってはいかがでしょう。  ただし、「恋人と一緒に行くと、絶対に別れることになる」というジンクスがありますので、彼氏持ちの女の子はご用心。  今回のゲストの|宮《みや》|沢《ざわ》|勝《かつ》|利《とし》は、本当は敵役で出てくるはずだったのです。|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》だしね。  いわゆる汚れ役の予定でした。  でも、書いているうちに、一回きりの敵役にするには忍びなくて……結局、味方になりました。  ヤンキーな不良って好きなんです。  しかも|大《おお》|阪《さか》|弁《べん》ときちゃあ……好みだなあ。うん。  |京介《きょうすけ》の初期の設定が不良少年……だったのですが、ぜんぜん不良じゃなくなってしまって、悲しかったので、勝利のようなキャラクターが生まれたわけです。  おかげで、割を食ったのが、本当の敵役の|赤《あか》|沼《ぬま》|英《えい》|司《じ》。うーん……気の毒だ。  設定がぜんぶ|勝《かつ》|利《とし》にいっちゃったので、中盤くらいまで、キャラクターが|掴《つか》めずに苦労しました。  でも、書きおわった今、ようやく|赤《あか》|沼《ぬま》という男がわかって、「うーん……もっとかっこよく書いてあげればよかった」と|後《こう》|悔《かい》しています。  |赤《あか》|沼《ぬま》|英《えい》|司《じ》というのは、天才|陰陽師《おんみょうじ》である|智《さとる》の力に|憧《あこが》れて、その憧れのあまり、思いもかけず|闇《やみ》に走ってしまった少年、なんですね。  天才への抵抗を|試《こころ》みた一人の平凡な努力家……です。  そんな赤沼がかわいそうで、いとおしくて。  敵キャラクターにここまで感情移入したの、初めてなんです。  すごく書きにくいタイプだったので、えらく苦労しましたが、たぶん、このキャラクターのことは、ずっと忘れられないでしょう。  そして、智と|京介《きょうすけ》。  わたしは、この二人を書いてる時が、いちばん幸せです。  たぶん、実生活ではありえないと思っている「永遠の|一《いっ》|対《つい》」が、智と京介のあいだに存在するからでしょう。  ごく自然に呼びあうような二人の|眼《まな》|差《ざ》しとか、ムキになって駆けっこしてしまう互いの子供っぽさとか、好きなんですよねえ。  智は、作者にとってもつきあいにくい子ではありますが、少しずつ|本《ほん》|音《ね》を見せてくれるようになりました。  京介のおかげで、だいぶ丸くなったようです。  やっぱり、いつまでもクールなだけの美少年じゃいかん。  京介は、正直いって、設定の時は、ここまで一人歩きしてくれるとは思っていませんでした。  明るくて、さわやかで、ひたすらどこまでも優しい健康優良児。  たぶん、京介だから、智も心を開いたんでしょう。  京介って、性格が悪い子とか、好みじゃない子が相手でも、「|殴《なぐ》ってでもその性格|叩《たた》きなおして、俺の好みにしてやるぜっ!」というタイプだと思います。ふふふ……きっとO型に違いない。  そうそう。本文中の〈いくぢ〉という|妖《よう》|怪《かい》は、かの|藤《ふじ》|田《た》|和《かず》|日《ひ》|郎《ろ》さんの『うしおととら』では〈あやかし〉という名前で出てきています。別名を〈いくち〉ともいうとか。 〈いくぢ〉ってなんか変な名前で、どうもしっくりこないのですが、「本当の名前」のパワーを大事にしたかったので、〈いくぢ〉を使いました。  ちなみに、作者の〈いくぢ〉のイメージはですね、書いているうちに|山《やま》|田《だ》ミネコさんの『ふふふの|闇《やみ》』の「よろでるり」になってしまいました。よろれひ〜♪  なお、本文中の|不空羂索観音《ふくうけんじゃくかんのん》の羂索についての記述は本当ですが、|錫杖《しゃくじょう》に関しては|岡《おか》|野《の》の創作です。んー……半分だけ本当で、残りは|嘘《うそ》をつくというパターン、いちばん混乱を招きやすいんですよね。反省してます(でもやめない)。  さて、3巻の予告です。  サブタイトルは『|鷹《たか》|狩《が》りの夜』(仮)。 (仮)をつけたのは、予定がちょっと狂ったせいです。  本当は、1巻『|桜《さくら》の|降《ごう》|魔《ま》|陣《じん》』のモチーフが桜で春(季節は初夏だけど、春なの)、2巻『水の|伏《ふく》|魔《ま》|殿《でん》』のモチーフが海で夏。以下、3巻が秋、4巻5巻が冬のお話のつもりでした。ところが、3巻が夏のお話になりそうなので、舞台もちょっと変わります。そうなると、サブタイトルも変わる……かも。  当初の予定では、秋なら|武《む》|蔵《さし》|野《の》で、モチーフは|菊《きく》にしようかなぁと思っていたんですが、夏なので|鎌《かま》|倉《くら》にします。  |江《え》ノ|島《しま》の次が鎌倉。  夏の古都鎌倉にくりひろげられるサイキック・ファンタジー。  重い宿命に悩み苦しむ、|智《さとる》と|京介《きょうすけ》が見いだした|光明《こうみょう》とは!?  そして、祖父母によって明かされる智の過去とは!?  智と京介の|想《おも》いは、どこへ行くのか……。  ちなみに『銀の共鳴』は、東京近郊の日帰りできるチープな旅、というのがコンセプトです(笑)。「関東甲信越小さな旅」……うーん。  あ、関東以外の読者様のために解説しますと、江ノ島から鎌倉まで、江ノ電で二十四分です。思いっきり近場です。  そういうわけで、今、岡野は鎌倉|幕《ばく》|府《ふ》だの|北条氏《ほうじょうし》だのについて、にわか勉強しております。  モチーフは……何になるかしらん。同じ夏だから、海で統一するかも。  智を鎌倉|東《とう》|慶《けい》|寺《じ》の|水《すい》|月《げつ》|観《かん》|音《のん》の前で泣かせたい……と思うわたしは、ヨコシマでしょーか(東慶寺っていうのはね、別名|縁《えん》|切《き》り|寺《でら》といいます。くわしいことは、観光ガイドで調べよう)。  では、最後になりましたが、担当の小林様、いつもお世話になっております。仕事をサボっている時にかぎってお電話がくるのは、JOAの|陰《いん》|謀《ぼう》でしょうか。  そして、|綺《き》|麗《れい》なイラストを|描《か》いてくださいました|碧《あお》|也《また》ぴんく様、本当にありがとうございます。 『FIGHT!!』のサウンドトラックアルバムは、仕事中によく|聴《き》いています。特に|挿入歌《そうにゅうか》の『僕のそばに、誰かいる』は、好きなのでエンドレスにすることが多いのでした(CDかけるとチビ月が出てくるんだとハッピーなんですが)。  そういうわけで、今後とも、よろしくお願いいたします。  さて、スペシャルサンクスは、|校《こう》|閲《えつ》|部《ぶ》のご担当者様へ。いつもいつも……申し訳ありません。|鋭《するど》いつっこみに、|岡《おか》|野《の》はジタバタしております。どうか、末長く|温《あたた》かな目で見守ってやってくださいませ。  それから、もう一人。取材につきあってくれたミヤちゃん、ありがとう。|江《え》ノ|島《しま》の夜は忘れなくってよ(笑)。  最後に、この本をお手にとってくださった読者様。  |波《は》|濤《とう》きらめく夏の|湘南《しょうなん》へようこそ。  |智《さとる》や|京介《きょうすけ》と一緒に、|波瀾万丈《はらんばんじょう》の冒険をお楽しみください。  では、次回、『|鷹《たか》|狩《が》りの夜』(仮)でお会いしましょう。 [#地から2字上げ]|岡《おか》|野《の》|麻《ま》|里《り》|安《あ》   〈参考図書〉 『延喜式祝詞教本』(御巫清勇・神社新報社) 『陰陽道の本』(学習研究社) 『神奈川の伝説』(永井路子/萩坂昇/森比左志・角川書店) 『鎌倉』(昭文社) 『鎌倉の寺』(永井路子・保育社) 『鎌倉文学散歩』(安宅夏夫・保育社) 『鎌倉・歴史の散歩道』(安西篤子監修・講談社) 『詳説佛像の持ちものと装飾』(秋山正美・松栄館) 『湘南 最後の夢の土地』(北山耕平/長野真編・冬樹社) 『神道の世界』(真弓常忠・朱鷺書房) 『神道の本』(学習研究社) 『図説鎌倉歴史散歩』(佐藤和彦/錦昭江編・河出書房新社) 『図説日本の妖怪』(近藤雅樹編・河出書房新社) 『世界宗教事典』(村上重良・講談社) 『道教の本』(学習研究社) 『日本伝説集』(武田静澄・社会思想社) 『日本の呪い』(小松和彦・光文社) 『日本の秘地・魔界と聖域』(小松和彦/荒俣宏ほか・KKベストセラーズ) 『仏教語ものしり事典』(斎藤昭俊・新人物往来社) 『梵字必携』(児玉義隆・朱鷺書房) 『水木しげるの妖怪文庫』(河出書房新社) 『耳袋』(根岸鎮衛原著/長谷川政春訳・教育社) 『密教の本』(学習研究社) 『図説民俗探訪事典』(大島暁雄/佐藤良博ほか編・山川出版社) 『図説歴史散歩事典』(井上光貞監修・山川出版社) [#ここで字下げ終わり] |水《みず》の|伏《ふく》|魔《ま》|殿《でん》 |銀《ぎん》の|共鳴《きょうめい》2 講談社電子文庫版PC |岡《おか》|野《の》 |麻《ま》|里《り》|安《あ》 著 (C) Maria Okano 1993 二〇〇二年五月一〇日発行(デコ) 発行者 野間省伸 発行所 株式会社 講談社     東京都文京区音羽二‐一二‐二一     〒112-8001